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ライター斎藤博之の仕事
斎藤博之は、祭りや民俗芸能・食文化・温泉文化・地域の社会史・地域づくりについて執筆しています。
あまりにもふざけたことがこの国の国会で行なわれているので、ひとこと書いておく。
戦争の準備をすることが戦争の抑止にはならないことは、歴史が証明している。歴史を正しく反省するならば、どのような戦争も自分の国を護るという口実で行なわれ、しかし実際には他国を侵略するものであった。侵略戦争の歴史を知ろうともしない人物が総理大臣を騙っているようだから教えてあげよう。これを「帝国主義」「植民地支配」と謂う。日本という国が起こした侵略戦争の責任を曖昧にしてきた結果が、デモーニッシュな法案を法に則ることなく押し通そうというデモーニッシュな政治を生んだ。その付けは、必ず、汝ら自身に回ってくるであろう。
憲法を変えることなくして、憲法に反する法を成立させてしまっては、法の体系が崩れ去ってしまう。憲法の規定が政権に都合が悪いからと言って勝手に無視するようでは、政権は好き勝手に何でもできてしまうことになる。それは「総合的な判断」などではなく、ファシストの横暴だ!
そもそも、法案の条文が意味している内容を問われて、今日には甲であると応え、明日には甲ではないと応えている曖昧な状況を、「議論は出尽くした」とは言わない。初めから議論するつもりはなかっただけのことである。少なくとも、議論を行なうからこそ、政治は民主主義たりうるのだ。権力を持った政治家が、議論をしたくないのであれば、この人はファシストに他ならない。
この国の民主主義を護らなければならない理由で、わたしは憲法を無視した安保法案に反対する!
漫画週刊誌『ビッグコミック スピリッツ』に連載されている「美味しんぼ」の福島県編で、福島県を取材に歩いた主人公の一行に鼻血が出るなどの症状が現れたことを描いた場面について、「事実に反する」だの「風評被害」だのと騒ぎ立てている諸君がいるらしいので、そういった健康被害にあった実在の登場人物として一言書いておく。
福島県は2年かけて長期取材していたのだが、この取材に同行したスタッフの何人かに、鼻血が出る、疲れて寝込む、などの症状が現れた。わたしも、その一人だ。わたしも原作者も、お互いに同じような症状に陥っていることに気づかず、はじめは自分ひとりの病気だと思っていた。わたしなどは以前から血圧の高い傾向があったから、それが悪化したのかと思って、病院に行った。診察の結果は、原因が何かはわからないので、止血の薬を出しておく、というものだった。不思議に思って血圧のせいではないかと訊いてみた。もしも血圧が原因で鼻血が出ているのだとすれば、血管が破れる場所はここではない、とのお答え。ついでに鼻血という症状が現れる病名をひとつずつ揚げて、その場合の症状はこうだからあなたの場合は当てはまらない、と解説してくれた。どの病気にも該当しないというのである。
鼻血ばかりではなく、どこかに1日取材に行くと疲れ果てて、何日も寝込んでしまうといことが続いたが、原因も病名もわからないというのでは、寝て恢復を待つ以外にはない。そんなある日、福島県双葉町から町ぐるみで埼玉県に避難しておられる方々を取材できることになって、まっさきに全町避難を決めた井戸川克隆前町長をお訪ねした。すると、その場所にたまたま偶然、岐阜環境医学研究所の松井英介所長がいらっしゃり、われわれに「体調の変化はないか」とお尋ねになるのである。これに雁屋さんが鼻血が出たり疲れたりする話をするので驚いた。わたしとまったく同じ症状だからである。お互いが同じ症状であることにようやく気づいて、われわれは顔を見合わせて唖然とした。
「わたしもですよ」と井戸川前町長。「同じような人が、この避難所にも、福島県にも大勢います。みんな自分が病気だと言わず、報道されていないだけなんですよ」とおっしゃる。「わたしもね、読まなければいけない本がたくさんあるんですが、とても疲れて、原発の事故以前に較べたら何分の一も読めません。国との折衝や会議などで外出すると、もうくたくたです」。
「これはね、被曝したからなんですよ」と松井所長。「放射能の影響というとみんな癌の心配ばかりしますが、健康被害は癌だけにとどまるものではありません。放射能は直接にも間接にも、人の健康に影響します。たとえば、みなさんの鼻血は鼻の粘膜が傷ついて現れる症状ですが、その原因は放射線が直接炎症を引き起こしたということではなく、放射線によって切断された水の分子が、やがて過酸化水素となって粘膜細胞を傷つけるからなんですね。鼻だけではなく、眼や咽や皮膚にも、同じ理由で症状が現れる人がいます」。
わたしの場合、歯茎からも出血があった。歯もぐらつくので歯医者に行ったら、全部抜いてしまおうというので、それでは総入れ歯になってしまうと思い、断って帰ってきた。塩で歯を磨くということをずっと続け、いまは症状が治まっている。
これは、われわれの身に降りかかった事実である。あとで知ったことだが、同行したカメラマンにも、同じような症状が現れたらしい。われわれにその原因はわからないが、取材の一行に同じ症状が現れていることは、原発の事故でもなければ説明がつかないだろう。松井所長のように考えれば、確かに納得できるのである。
靖国神社は、この国の伝統的な葬送観念や御霊信仰に即して、戦歿者を祀っているわけではない。戦に敗れた者や虐殺された者を祀らないという意味で、靖国神社はこの国の民俗信仰からみれば異質で、特殊近代的な神社だ。一般の庶民が靖国神社を参拝することには身近な戦歿者を悼み・遺された者の心を癒すという意味があるとしても、政治家が靖国神社に参拝することは単純に戦歿者を悼むということではありえない。靖国神社が戦に敗れた者や虐殺された者をも祀る場所ではないからである。靖国神社に参拝しようとする政治家は、歴史や伝統に何も学ばないという理由で、侵略を受けた側の御霊(みたま)を鎮めることが出来ないだけではなく、戦に駆り出され亡くなっていった者たちの魂を愚弄することになる。
ついに阿部政権は、本性を顕わにした。何を「秘密」と特定するのかを決める同じ行政府のなかにチェック機関をおいて、これで充分だと強行採決を進めようとしている。この政権は、民主主義の「み」の字もわかっていない。民主主義とは、権力を持った機関や人物を、常に第三者がチェックできることが制度として保障されていることを言う。
阿部政権が国会の審議を打ち切ろうとすればするほど明らかになってくる法案の矛盾、答弁の矛盾。「秘密」に指定した文書を破棄できるという内閣の決定もあるというではないか!
この内閣は秘密保護法を強行採決しようとしているばかりではなく、原子力発電を再開し建設も進めようとする方針だという報道が、きょうもあった。いずれも論理的に説明できず、数の力で押し切ろうとしている。この政権は何事も説明しない。すべてが「秘密」で、国民には説明がない。これを許しておいては、危険極まりない。まもなく強行採決が行なわれるらしいので、とりあえず反対の声を上げておく。
LeicaのボディにZeissのレンズ
仕事用に新しいデジタルカメラを導入しました。
Leica M type 240です。M型Leicaのこの新しいデジタルカメラは、Range Finderを持ちながら、別売のEVF(Electric View Finder)を装着すれば、距離計に連動しないレンズも使えるようになったのです。これは、Leicaのレンズに限らずとも、マウントアダプターさえあれば、他社のレンズであろうと用いることができる、ということです。距離計の制限を受けないので、最短撮影距離の短いレンズも、マクロレンズや望遠レンズも、EVFで撮影できる初めてのLeica Mというわけなのです。
わたしも、デジタルの時代になって製造・発売が終了しているCONTAX/YASHICAのCarl Zeissレンズを、使い道のないまま死蔵していたのですが、マウントアダプターを介せば撮影にこのレンズたちを使えるフルフレームのデジタルカメラが、やっと現れたのです。
じつを言うと、新しくあれこれのレンズを買い揃えるような金銭的な余裕はないと理由で、これまでわたしはデジタル一眼カメラは導入できずにいたのです。写真も撮るライターとしてどうやってきたのかというと、フィルムで撮影するか、コンパクトデジタルカメラで誤魔化してきたのでした。
Leicaのほうが高いじゃないかと言われるかもしれませんし、じっさいにカメラのボディだけを見れば、LeicaはNikonやCanonのフラグシップ機の倍、廉価版のフルフレーム機の数倍はします。ところが、28mm・35mmと85mmにマクロレンズという具合にわたしが頻繁に用いる4本の明るい単焦点レンズを揃えようとすれば、NikonやCanonのレンズは持っていないわけですから、わたしの場合は結果としてLeicaより遥かに高い買い物になってしまうわけです。
そういうわけなので、わたしにはLeicaのカメラにたいするこだわりなど、微塵もありません。Leicaをいとおしんできた方々には怒られるかもしれませんが、CONTAX/YASHICAのCarl Zeissレンズを使うことができるというのが、このカメラを導入した理由なのでした。それでも、現物が来てみると、Leicaは姿かたちも、重さも、使い心地も、ちょうど良いのです。露出を計ってシャッタースピードと絞りを決め、焦点距離を合わせて、シャッターを切る。その単純な動作が、いまどきのカメラで行なおうとすれば、メニューの中にあって単純にはいきません。だいいち、いまどきのカメラは無意味に大きく、美しくありません。その点、Leicaは昔のカメラと同じようなデザインで、手が覚えてきた動作で扱え、すぐに使えます。これであのぶざまな赤丸Leicaマークが無ければ、言うことはないのですが。
おととしの秋からことしの春にかけて、通算すれば100日を越える長期にわたって断続的に、福島県の取材をしてきました。現在、雑誌に連載されている漫画『美味しんぼ』の「福島県の真実」の案内をするためです。この取材から帰って暫らくすると、鼻血が止まらなくなるという事態に陥りました。
これは病院で止血剤をもらって止めましたが、「原因はわからない」と言われました。傷があるわけではなく、毛細血管が破れているらしいのです。わたしは高血圧なので、そのせいかと思って心配しましたが、医師のいわく、「もしも血圧が高くて血管が破れるとしても、その場所はここではない」と。薬でとりあえず止めたものの、湯に浸かったり、酒を飲んだりすれば、またとめどなく血が噴き出します。
さらに、ものすごく疲れが溜まって、体温が高いわけでもないのに躰が熱っぽく、考えることに集中できず、気力が失せて、睡眠時間は十分に足りているはずなのに一日中眠気を抑えることができず、取材などでわずかの時間でも外に出かけようものなら、数日は横になっていなければならないような状態でした。つい数日前までは、こんな按配だったのですが、いまは一日のうち数時間は起き上がって原稿を書いています。
2013年3月3日に青森県八戸市が主催して行なわれた「義経北行伝説シンポジウムin八戸」のうち、「第1部 トークセッション」の内容を紹介する3回目の記事です。お話いただいたのは、入間田宣夫氏(歴史学)と小松和彦氏(民俗学)で、進行役は斎藤博之が務めさせていただきました。
* ここに掲載するのは、あくまで進行役の斎藤がまとめたものなので、お話しいただいたものをそのまま掲載しているわけではありません。内容に対する責任は斎藤が負うものであることをご承知の上、お読みください。なお、敬称は省略させていただきます。
伝説の話者は「聖」
[斎藤]
義経が陰陽師の秘密の巻物を盗み取って強くなるという話が、蝦夷が島へ行って、要するにもっと外の世界へ行って強くなるという話に作り替えられていく。そこで、作り替えて物語を語ろうとしたその話者というべきか作者がいると思うんですけれども、誰がこんな物語を作り替えたんでしょう。
[小松]
これはいくつか、いろいろな人が想定されておりますけれども、おそらく今の都での鬼一法眼、そういうような話は、おそらく町で門付をして回ったりしながら生活を得ている、そういう都の芸能者というんでしょうか、宗教者でもあると同時に芸能者のような人たちが、作っていったと思うんですけれども、物語をスケールアップしていく過程で、都だけではなくて、都の近辺から、さらにいろいろな地域を回って歩く、廻国する宗教者たちが、当然想定されるかと思います。一番の候補者は、修験道の聖(ひじり)、遊行する修験者ですね。鞍馬というのは、今でも修験道の道場なんですね。鞍馬の天狗が持っていた兵法書を義経が手に入れたというような話も同時に語られております。鞍馬天狗ですね。天狗は修験道と深く結び付いた存在です。天狗の姿形は山伏の姿、修験者の姿形です。
東北地方の義経の物語の一つ一つは、このような小さなエピソードを語りながら話が修正されていったんだろう。その小さな物語の膨大な集積が義経伝説になる。私は東北地方の聖、修験の山々を回って修行する修験者たちが、その地域で人びとに義経の物語を語ることで、自分の話を聴いてもらえた、そうしていろいろな話が語られ伝えられていったのではないだろうかと、私は思っているんですけれども。
語り伝えた側の気持ち
[斎藤]
中世の時代に、義経が強くなったのは北の異界との接触が大きな関わりを持っていたとする物語が生まれる。その物語の精神構造は、これを土台に生まれた新たな伝説、義経は衣川で死なず北へ逃げ延びていったと信ずる、あるいは逃げ延びていってほしいと願う精神とのあいだに、何か共通するものがあると考えていいのでしょうか。
[入間田]
鬼一法眼の娘、名前が皆鶴姫というんですね。実は、その話というのは、東北地方にそのローカルバージョンがあるんですね。例えば会津若松、あの有名な磐梯山の麓にお寺がありまして、会津では大寺といって一番大きなお寺で、そこに会津の人はお参りするんですけれども、その上り口の藤倉というところに二階堂というお堂があって、そこに面白い話があるんです。
都から兄の追求を逃れてきた義経が、藤倉を通って大寺まで行った。磐梯山までお参りに行くんですね。後から都から皆鶴姫が追いかけてくる。必死に追いかけるんだけれども、なかなか追いつかない。磐梯山の慧日寺に義経はとうに着いちゃった。皆鶴姫はようやく麓の藤倉まで来たんだけれども、そこでもう疲れ果てて諦め、池にドボンと身を投げ自殺してしまうんですね。それで、この皆鶴姫を祭ったお堂というのが今でも藤倉にあるんですね。
それは、会津の人にとってみるとすごくわかるので、つまりみんながしょっちゅうお参りして信仰している会津磐梯山のお寺、義経がそこまで行った。でも、追いかけてきた恋人の皆鶴姫はそこまで行けなくて、一歩手前の山の入り口のところであえなく果ててしまった。というので、地元の人はなるほどなという、皆鶴姫もやっぱり大寺までお参りさせて義経と会わせてやりたかったのになという思いも持ちながら、でもそのことによって、会津の人たちは大寺と、それから入り口にある藤倉の皆鶴姫の身投げした池まであるんですけれども、そういう関係性を理解して、人びとの会津磐梯山の慧日寺に対する信仰がますます強まると。
あるいは、宮城県の三陸海岸でいきますと、気仙沼に同じく皆鶴姫の話がありまして、それはやっぱり義経の後を追いかけてくるんですけれども、追いかけ方がすごくて、会津の場合はてくてく歩いてくるんですけれども、船に乗ってくるんですね、都から。それが「うつぼ舟」といって、どんぶらこと自分で漕ぐ船ではなくて、かいも何もなくて、ただの丸い円盤みたいなものが浮いている、それが潮に乗って都の方から気仙沼の浜辺へ流れ着いたという話があって、つまりそれは浜の人びとからいうと、外からの情報、都の方面の話とかそういうものは常に船に乗って浜にたどり着く。だから、当然そういうよそからの珍しいお姫様なんかも船に乗ってやって来る。というようなことがありますから、その浜の人にとってみると一番自然なんですね、うつぼ船に乗って流れ着いたという話が。浜の方の民俗は、小松先生のご専門だけれども、常にやっぱりそういうふうに、潮の流れに乗って見知らぬところからいろいろなものがやってくる。そういうのにちゃんと義経の話が乗っかっているんです。
ですから、北の方に行った義経の話もあるんですけれども、むしろそれぞれの地域のお寺とか、そういったところの地元の人のそういう気持ちにフィットする格好での伝説の残り方もあるのでね。だから、語り伝えた方の側の気持ちもあるんだけれども、それを受けとめる側の気持ちからいうと、やっぱり地元の地形なり、そういうものに沿って、やっぱりそれが受け止められていくという、そういうこともありますね。
前回に続き、2013年3月3日に青森県八戸市が主催して行なわれた「義経北行伝説シンポジウムin八戸」のうち、「第1部 トークセッション」の内容を紹介します。お話いただいたのは、入間田宣夫氏(歴史学)と小松和彦氏(民俗学)で、進行役は斎藤博之が務めさせていただきました。
* ここに掲載するのは、あくまで進行役の斎藤がまとめたものなので、お話しいただいたものをそのまま掲載しているわけではありません。内容に対する責任は斎藤が負うものであることをご承知の上、お読みください。なお、敬称は省略させていただきます。
伝説も歴史をつくる
[斎藤]
『吾妻鏡』という鎌倉幕府のいわば正史のような書物の中では、義経の兄の頼朝が大変に驚いているんですね。首実検をして義経が死んだということを確かめているはずなのに、義経が兵を挙げたという伝えが鎌倉の方に入ってくると、もう大変に驚いて、すぐ兵隊を集めようとする。それから、義経についての伝説というのが、もう既にここから始まっていて、実はその死んだ義経が兵を挙げる、それが当時の鎌倉ではさもありなんことだと思う、何かこういう怨霊とか、伝説とかが事実と入り交じった、そういうことが義経が亡くなった直後から起きているということについて、ここは小松先生の分野だと思いますが。
[小松]
小松でございます。広く東北に義経伝説が広まっているわけですけれども、これを都の方から語る場合と、こちらの東北の地域の方々が語る場合のずれ、先ほども入間田先生がそのずれについてお話くださったと思うんですが、歴史的な解釈の問題でも、伝説でも随分ずれがございます。
私は幼いころ函館に住んでいたことがございます。小学校に入る前から小学3年ぐらいなんですけれども、函館山の西の麓の、さらにその海岸の西南になるんでしょうか、海岸に穴間という場所がありまして、ここにいろいろな伝説があります。例えばそこには大ダコが住んでいるとか、洞窟が函館山の奥底まで続いているんだとか、いろいろな伝説のある場所なんです。土地の人から、あそこは源義経の一行が生き延びて、内地からやってきて隠れ住んでいたんだと、さらにしばらくそこで滞在して、さらに奥の方に出かけたんだということを聴きました。その後、義経とは何ぞやと、一体なぜこんなところに来たのかと、牛若丸の話を読んで育ちました。東北に点々と義経伝説が伝わっている、さらには蝦義経は夷地や千島へまでも行き、果ては大陸に渡ってジンギスカンになったんだとか、そういう伝説を聴きました。
史実の義経と伝説の義経、この2つを見比べながら、なぜ義経がある意味ではヒーローになっていくのかというようなことに興味を持ったんですね。そうすると、入間田先生がご指摘されたように、早い時期に既に義経が非常に大きな東北の権力・勢力のシンボルになっていたというようなことが、おそらくは伝説の背景にあったんだろうと思うんですね。ただ、残念ながら入間田先生の話にありましたように、さまざまな意味での政治的な駆け引きの中で破れていったと、あるいは権力争いに破れていったと。敗者というものについての思いというのが、いろいろな屈折した形で伝えられていると思うんです。
例えば時代を下って、義経の生存伝説に似たものとして、スケールは小さいかもしれませんけれども、西郷隆盛が実は西南の戦争で自害して首実検まで受けたんだけれども、隆盛は生き残ってロシアに行って、ロシアの軍隊を指導して、ロシアの皇太子の訪日に随行して、ロシアの軍隊も引き連れて帰ってくるというような、そういう伝説がまことしやかにある時期信じられ、九州を中心に新聞記事にもなったりしました。ですから、生き残っていてほしい敗者への思いというものは、ずっと日本人の中に、義経の時代、あるいはひょっとしたらその前ぐらいから語り伝えられていて、それが例えば明智光秀がひょっとしたらとか、誰それが生きていたら、あるいは生きているんだという、おそらく長い伝統の中の一つの形だろうと思うんですね。
東北の人たちが義経を生かしておきたい、その思いがいろいろな形で、おそらくは東北の人たちの中に生きていたと思うんです。義経がもしも生きていて東北に政権を立てていたら、違った歴史や違った世界が、中世が開かれたかもしれないと。もしも徳川家康が早く死んでいたら、伊達政宗が天下を取るためにとか、そういう思いともつながっているのではないかと。根底には、あの人が早く死んでいたら、あの人が早く死んじゃったからとかいう思いというのが、新しい何か物語を作っていく背景に私はあるのではないかというふうに思っております。それは、ある意味では歴史の読み替えでもあるし、自分たちの歴史を、こういう歴史だったら良かったなと思い、それがある意味では義経伝説を作っていく一つの原動力になっているんだろうというふうに私は思っております。
2013年3月3日、青森県八戸市が主催して行なわれた「義経北行伝説シンポジウムin八戸」の内容を紹介します。
第1部:トークセッション
入間田宣夫 氏(歴史学)
小松和彦 氏(民俗学)
進行役:斎藤博之
[斎藤]
義経伝説について議論しようとすれば、しばしばその伝説は「歴史的な事実」なのか、「偽り」なのかという論争になってきたのですが、そういう議論を期待されて聴きに来られた方も多いのかもしれませんが、今日はそういうお話はしません。このシンポジウムにともなって伝説を伝える家や神社・お寺からたくさんの宝物をお借りして、別な会場(八戸市美術館)で企画展をやっておりますが、伝説と宝物を伝えてきた家の方々にとって、義経伝説は決して「偽り」の物語ではなく、その家や神社・お寺で代々信じてきた「真実」だと思います。さらに義経伝説を伝えてきた家・神社・お寺がどこかに1つあるというだけではなく、東北の各地にたくさんあるということは「歴史的な事実」ですし、それぞれの場所の伝説が幾百年にもわたって伝えられているということも「歴史的な事実」だと思います。このことが東北という場所にとって、あるいは三陸という場所にとってどんな意味があるのか、開会にあたって八戸市長も「伝説を一つの切り口にして三陸の復興につなげていきたい」とお話しされましたが、伝説を切り口として三陸の歴史や社会についてどんな捉え方ができるのかということを探ってみようということを、本日のテーマにしたい思います。
今日は、歴史学の入間田先生と、民俗学の小松先生をお招きしているので、お二方にいろいろな話をお聞きしながら、この問題について考えていきたいと思っています。
* ここに掲載するのは、あくまで進行役の斎藤がまとめたものなので、お話しいただいたものをそのまま掲載しているわけではありません。内容に対する責任は斎藤が負うものであることをご承知の上、お読みください。なお、敬称は省略させていただきます。
来る2013年3月3日、
青森県八戸市で「義経北行伝説」についてのシンポジウムを行ないます。
日時:2013年3月3日13時〜17時
場所:八戸シーガルビューホテル
主催:八戸市
入場無料
法霊神楽 伝説の伝わるおがみ神社の神楽です
1.トークセッション
入間田宣夫 氏(歴史学)
小松和彦 氏(民俗学)
進行役:斎藤博之
日本にとって「東北」とは何か?
義経はなぜ「北」を目指すのか?
義経にとって「東北」とは何か?
東北にとって「義経」とは誰か?
鮫神楽 伝説の伝わる鮫地域の神楽です
2.パネルディスカッション
河村光穂 氏(小田八幡宮宮司)
桑原一夫 氏(寺下観音潮山神社宮司)
坂本守正 氏(おがみ神社宮司)
法官新一 氏(学校法人光星学院副理事長)
コーディネーター:斎藤博之
八戸市内とその近郊で伝説が伝わる神社や家の当事者を招いて、
伝説が伝えられてきたことの意味を考えます。
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これにともなって、
企画展 三陸海道に残る源義経の軌跡
を開催します。
三陸の海沿いに残る、源義経に関連した所蔵品を集めたものです。
会期:2013年3月2日(土)〜10日(日)
開館:9:00〜17:00(入館は16:30まで)
会場:八戸市美術館 3階展示室
主催:八戸市
入場無料
永く陸奥(みちのく)は化外の地、異界への通路であった。
源頼朝が現れて鎌倉に幕府を開こうとするころ、
京の都の権力も崩れ去り、
また「黄金の国」みちのくも敗れ去った。
その時代、
この異界への通路を北へ向かって駆け抜けた男があった、
という伝説がある。
源義経。滅ぼされたはずの義経が
生きて北へ向かったという伝説はなぜ生まれたのか。
その伝説が、どのように奥州へ、さらに北方へと広まったのか。
義経に託して、北方世界はどんなロマンを語ったのか…。
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詳しくは、
義経北行伝説シンポジウムin八戸
のページをご覧ください。
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