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ライター斎藤博之の仕事
斎藤博之は、祭りや民俗芸能・食文化・温泉文化・地域の社会史・地域づくりについて執筆しています。
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雁屋 哲,花咲 アキラ
小学館
¥ 550
(2012-02-29)
コメント:3月11日以降の東北の被災地を訪ね、ほうんとうの豊かさとは何か、この国にいちばん必要なものは何か、食べものを通して考えていきます。わたくし斎藤博之が、案内させていただきました。
小学館から、『美味しんぼ』108巻(被災地編 めげない人びと)が発売になった。100巻(日本全県味巡り 青森県編)に続いて、わたしが案内させていただいた。
2011年3月11日に列島を襲った大地震は、これまで経験したことのないほど広い範囲に被害を及ぼしたが、その特徴は地震だけではなく津波と原子力発電所の事故が重なったことである。今回は、東日本大震災の被災地のうち、八戸(青森県)から石巻(宮城県)までの三陸地方を訪ねた。
この編で取り上げるのは、次の箇所である。
・山の楽校(青森県八戸市南郷)
・洋望荘(青森県八戸市種差海岸)佐藤一弘さん
・重茂漁協(岩手県宮古市重茂)高坂菊太郎さん
・八木澤商店(岩手県陸前高田市)河野和義さん・通洋さん
・水山養殖場(宮城県気仙沼市唐桑)畠山重篤さん
・福よし(宮城県気仙沼市)村上健一さん
津波はこの世のありとあらゆるものを流し去ってしまったけれど、合成洗剤を石鹸に変えて生活排水を考え直し、清らかな海を護ろうとしていた重茂や、「森は海の恋人」をスローガンに山に木を植えることで海の環境を快復した唐桑には、生き物も還ってきた。このマンガが雑誌に掲載されたあと、重茂では若芽の収穫が出来たし、唐桑では牡蠣の出荷が始まった。牡蠣は1年で出荷するのが普通だが、半年で筏が沈む間際になるほど、大きく育った。むかしから、津波のあとは牡蠣が早く育つ、と言い伝えられてきたと言う。
陸前高田の醤油屋・八木澤商店は、江戸時代からの蔵が流され、棲み付いた酵母も失ってしまったけれど、予定通り、新入社員を雇った。「地域との約束を守る」ためである。商売は、地域の人に買ってもらうことで成り立っている。その精神が、あの真面目な醤油造りにも現れていたのだ。いまは秋田県の醤油蔵に造ってもらって売っているが、市民ファンドの援けも得て、新しい工場を建てることになり、じぶんたちの仕込みも始まる。新たな一歩を踏み出そうとしているところだ。
南郷の「山の楽校」は、津波の被害には遭っていない。さしたる被害がなかった。ここで、焼畑を復活させる試みが続けられている。焼畑で取れた作物で、郷土料理も復元した。その食べものを味わうことで、自然と共存し・絆を大切にする、東北の豊かさが見えてくるだろう。
まっとうな食べ物を作っていた生産者たちは、どのように復興に取り組もうとしているのか。豊かな自然と、温かな絆をもったこの東北に、ほんとうの幸せがあったのではないか。わたくし斎藤博之が案内します。
奥大道を北へ巡る旅の終わりに、もういちど平泉中尊寺に立ち返ってみよう。中尊寺大長寿院には、公開されてはいない7つの古面がある。そのなかには、舞楽に使われたかもしれない面が含まれていた。
能面に較べれば平板ではなく、いくぶん奥行きがあり面に高さがあるので、舞楽の面かとも思うのだが、はたしてこのような面を用いる演目があったかなかったか。中尊寺としても、調査を依頼しているところだそうだ。櫛引八幡宮や岩木山神社の舞楽面と較べてほしいのだが、「採桑老」(さいそうろう)に似ていなくもない。
この面は、大星神社や天台寺に遺る「二の舞」の「咲面」(えみめん)、すなわち老爺の面に表情が似ている。ただし、櫛引八幡宮のものとは表情がかなり異なっている。こうしてみると、おなじ奥大道の中世の「咲面」でも、表情の似ているもの、異なるものがあって、どのように伝わっていったかを考えるヒントにもなりそうだ。
櫛引八幡宮や天台寺の「還城楽」(げんじょうらく)と較べてみよう。鼻が横に大きく、眼は見開き、眉毛が吊り上っている。口は大きく、横に広がっている。こういう点が、共通しているのではないか。そういう点を考えれば、「還城楽」に見えなくもない。
この面が何かということは、いまのところわたしには特定できないが、奥行きのある面の構造からして舞楽面であることだけは確かであろう。髪を植え込んでいたらしきあとがある。「胡飲酒」(こんじゅ)だとも思える。
これで、平泉から北へ、奥大道の周辺に伝わる中世の舞楽面を、ほとんど観て来たことになる。どんな面が残っているかということに共通点があるばかりではなく、その面の姿にも東北らしい特徴があった。平泉という都市と奥大道が、奥州藤原氏の時代が終わったのちも、こういった芸能が伝わる交差点になっていたということが言えるのではないか。
奥大道は平泉から北へ向かい、鹿角から津軽へ抜けて外ヶ浜へ至る道と、鹿角で別れて三戸から根城へ向かう道があり、この二つの道が青森の堤ヶ浦で合流していたと思われる。この南部糠部の道に、櫛引八幡宮(八戸市)がある。櫛引八幡宮に遺る舞楽面は9枚、その数は東北では天台寺(二戸市浄法寺)に次いで多く、大星神社(青森市)と同じ。本州の北端にありながら、大星神社と同じように旧い形式を保っているとともに、間違いなく美しい。
二の舞
櫛引八幡宮の「二の舞」の面の特徴は、なんといっても、この笑顔である。老婆の「腫面」(はれめん)も、老爺の「咲面」(えみめん)も、じつに屈託なく笑っている。なんとも東北らしい笑みだが、「二の舞」の本質を顕しているのではないかとも思う。とくに、東日本を襲ったあの大震災のあとでは、なおのこと、東北人が生き抜いていく強さが、この笑みのなかに見出せるのではないか。
散手と貴徳
「散手」(さんじゅ)が、櫛引八幡宮には2面あるのだが、そのいずれも、人懐っこい眼をしている。怒っているようにも、泣いているようにも見える。番舞(つがいまい)の「貴徳」(きとく)もあわせて、ほかにはない表情を持っていると言えよう。
天台寺は漆で有名な浄法寺(岩手県二戸市)にある寺で、かつて今東光や瀬戸内寂聴が住職を勤めたことで知られている。寺に遺る鰐口に刻まれた年号から、少なくとも14世紀にはすでにあったことがわかる。このような山中になぜ古刹があるのかと言えば、奥大道から遠くない位置に説明を求めることが出来よう。この寺に伝わる中世の舞楽面は10枚、東北の中で最も多い。舞楽を演ずる楽人(がくにん)の集団が、ここにあったと想像しても不思議ではない。
二の舞
もともと「二の舞」の面は、面というよりは被り物かと思うほど大きく、伎楽の面に近いものを感じるが、天台寺の「二の舞」は、とりわけ大きく、しかも厚い。「腫面」(はれめん)の老婆の表情は柔らかく、「咲面」(えみめん)の老爺も人のよさが滲み出ているようだ。極めて東北的な表情と言えるが、鄙びて稚拙なのではなく、明るく伸びやかだ。
散手と貴徳
「散手」(さんじゅ)と「貴徳」(きとく)も、大星神社(妙見堂)や岩木山神社(百沢寺)・櫛引八幡宮などにある面と較べれば、目鼻に少しとぼけたような表情があり、年代を追って東北的な特徴をまとっていくのを眼にすることが出来る。なお、この「貴徳」は口を丸くすぼめているが、鯉の口のようであることから「鯉口」(こいくち)と言う。「貴徳」はひとりで舞う曲だが、「鯉口」の面を付けるときは「番子」(ばんこ)が二人付き従う。「番子」は舞人に鉾(ほこ)を渡す役だが、いまは南都や宮内庁の楽所(がくそ)にはない(かつてはあっただろうということは、たとえば鎌倉の鶴岡八幡宮に、「鯉口」とともに「番子」の面が遺っていることなどからも知ることができる)。はたして天台寺の舞楽に「番子」があったかどうか、気になるところだ。
還城楽
「還城楽」は頭と顎が面とは独立して動くのが旧い形なのだが、この天台寺の「還城楽」は眉や額が面のなかにあり、少なくとも頭と頬が面と一体であることがわかる。次の項で櫛引八幡宮(八戸市)の舞楽面を紹介するが、旧いタイプの「還城楽」が残っているので、較べてほしい。櫛引八幡宮から天台寺へ、舞楽面の姿が移行していくのがわかるであろう。
岩木山麓の百沢(弘前市岩木)にあるこの神社は、神仏分離以前は「百沢寺」と呼ばれていた。もともと中世のころは十腰内の巌鬼山神社の場所にあった。岩木山の北麓にあり、奥大道から日本海へ向かう脇街道に近い。この岩木山神社に、中世の舞楽面が7面遺されていることから、舞楽集団を伴っていたと考えるのが自然である。
採桑老
岩木山神社の舞楽面のなかで特徴的なのは、「採桑老」であろう。「採桑老」は、齢を重ねた最長老の舞人だけに舞うことが許される曲で、こんにちではめったに舞われることがない。岩木山神社では、この面を「神事面」とも言っており、神事に使ったものかもしれない。舞楽の面を神事に使うことも、東北らしい特徴である。
二の舞
岩木山神社の「二の舞」は、「咲面」(えみめん)と「腫面」(はれめん)のうち、老爺の「咲面」がなく、老婆の「腫面」だけが残っている。もともとは「咲面」もあったのだろうと想像され、そうだとすれば「振鉾」(えんぶ)と「案摩」(あま)が舞われたに違いない。
岩木山神社の舞楽面が、いずこからか伝来したばかりではなく、舞楽集団があって、舞を伴っていたであろうと想像できるのは、伝わっている面のすべてが扁柏(ひば)の木で作られているからである。扁柏を産するのは(のちの時代の)津軽と南部にあたる地域であることから、面が北東北で作られたことは間違いなく、面を彫る職人の集団が地域にいたということが、面を必要とする楽所(がくそ)がいくつもあったことを物語っているからである。
それでは、奥大道に伝わる中世の舞楽面を、来たから順に見ていこう。
まずは、青森市の大星神社(妙見堂)の舞楽面である。大星神社は、青森市の荒川のほとりにあって、浪岡から堤ヶ浦に至る街道が、その川沿いを走っている。近世の大豆坂(まめざか)街道に当たるこの通りが、中世の奥大道だった。奥大道は浪岡から北の油川・内真部の湊へ向かう一方、山越えして堤ヶ浦に至る。この道がさらに、七戸から根城へと続き、毛馬内で再び奥大道に合流する。大星神社は、この街道の要の場所にあって、神仏分離の以前は妙見堂と呼ばれていた。この場所を菅江真澄が訪れていることは、このウェブログの民衆に伝わる舞楽(1)に書いた。
大星神社の舞楽面
二の舞(腫面と咲面)
はじめに「振鉾」(えんぶ)という曲があったはずだが、舞楽のはじめに行なわれるこの儀式の舞には面を用いないので、その舞があったという物理的な証拠はない。「厭舞」のあと、左方が「案摩」(あま)を舞う。「案摩」は、紙に陰陽道の護符を顔のように墨書きした「雑面」(ぞうめん)というものを付けるので、やはり面は残っていない。「反閇」(へんばい)を踏む、まじないの舞である。
右方が舞う「二の舞」は、「案摩」と番(つがい)になる答舞で、案摩の真似をする滑稽な「もどき」になっている。「二の舞を踏む」という慣用句は、ここから来た。老爺の「咲面」(えみめん)と、老婆の「腫面」(はれめん)の、二人で舞う。天王寺の楽所(がくそ)には「二の舞」は失われて伝わっていない。天王寺から伝わった日本海伝いの民俗芸能では、「二の舞」は「案摩」を真似ても上手く舞えないばかりではなく、爺婆がまぐわり種を播く滑稽な仕草がさらに笑いを呼び、卑猥だが底抜けに明るく、五穀の豊穣を祈願することに繋がっている。奥大道の終点に近いこの妙見堂にも、これに近い「二の舞」があったのではないだろうか?
* このウェブログの地方の舞楽も参照してください。なお、「民衆に伝わる舞楽」を執筆したのち、それぞれの寺社に別の面があることも確認されているので、本稿では面の枚数などを訂正してあります。
弥陀の浄土を示す道
「これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり。名づけて極楽と言う。その土に仏ありて、阿弥陀と号す」。中尊寺の金色堂は、阿弥陀経に云う「極楽浄土」を、この世に示そうとしたものである。
もういちど、その内陣を見てみよう。扁柏の柱は杉材を巻いて、幾重にも漆を塗った上に螺鈿の細工が施されている。須弥壇の高欄は紫檀張りで、螺鈿と象牙の細工がある。皆金色の弥陀の御堂が、さらに深く七色の光を放っている。
この時代の工芸の粋を極めて顕われた阿弥陀浄土は、海を越えた異国から取り寄せた品々で出来上がっている。螺鈿細工の夜光貝、紫檀、象牙は、交易によってもたらされたものだ。
異国から平泉にやってきたものは、それだけではない。柳之御所跡や志羅山遺跡からは、常滑の陶器とともに、夥しい唐物の白磁が出土する。この当時、中国の磁器が入ってくる日本の玄関口は、博多湊であった。博多を経て寧波へ繋がる道を、平泉は持っていた。それが、北上川と奥大道だった。
奥州藤原氏がみちのくを支配していた時代、北上川には柳之御所と加羅御所のあいだに入り込む浦があった。領主が管理する川湊があったと考えても、不思議ではない。
奥州の動脈
そして陸には、奥大道があった。南から白川の関を越えて来る道は、達谷の毘沙門堂の前を通り、毛通寺の南大門に至る。観自在王院の西面に車宿があり、その南に倉町があった。ここから道は、もういちど北へ、金鶏山の麓を進み、柳之御所から延びてきた道と高館の前で合流して、中尊寺多宝塔へ向かう。
道は北へも続いていた。関山を降りて、衣の関から衣川を渡る。関道の傍らに、遠来の客をもてなす接待のための館があった。長者ヶ原の廃寺から津軽の外ヶ浜へ。外ヶ浜とは、津軽の陸奥湾に面した地域のことだ。途中、鹿角で道は二手に分かれていたらしい。一方は糠部へ。他方は矢立廃寺から峠を越え、浪岡を経て陸奥湾に至る。JR新青森駅に近い新田遺跡からは木管が発掘され、なんらかの役所ではなかったかと考えられている。
平泉から北へは白磁などが運ばれていっただろうが、逆に北方から平泉にもたらされたものもある。『吾妻鏡』には、毛越寺円隆寺の薬師如来像を彫るにあたって、基衡が仏師雲慶に贈った品々が記されている。そのなかに、糠部の駿馬五十疋・希婦細布二千端に並んで、蝦夷ヶ島の鷲羽百尻・水豹皮六十余枚があった。奥大道を運ばれてきたものが、平泉の金と合わせて京の都に運ばれた、具体的な例である。
この道を、文化や芸能も伝わって行ったであろう。そのひとつが、舞楽ではないか。
苦しみを抜き、楽を与え
遍く皆平等なり
清衡以前の道
〜長者ヶ原廃寺跡(奥州市衣川)〜
中尊寺にあった多宝寺から北へ、衣川へ降りてきたところに「衣の関」があったと言う。ここから外ヶ浜まで続く道を清衡は整備した。関から河を渡ったところに道路の遺跡がある。「関道」と言う。その東に、かわらけを大量に出土した屋敷跡があった。平泉の政庁が客をもてなすために使ったのだろうと考えられている。
その道を真っ直ぐ進んだところに、長者ヶ原廃寺の跡があった。長者ヶ原と呼ぶのは金売り吉次の屋敷があったという伝説があるからだが、発掘されたのは奥州藤原氏より以前、安倍氏の時代の寺である。衣川は安倍氏が拠点を置いた地域であった。
清衡以前の道が、奥大道と同じであったかどうかは、わからない。しかし、安倍氏の時代も、街道は長者ヶ原の寺を通っていたのだろう。面白いことに、廃寺を発掘してみると、南門・本堂・北門は一直線に並び、やがて中尊寺多宝塔の出来る関山の頂に向かっているのである。
清衡は、多宝寺に続いて、十体の阿弥陀仏を祀る大長寿院を、中尊寺に建てた。『吾妻鏡』に「二階大堂」と書かれたその建物は、関山の北側にあった。長者ヶ原の廃寺と向き合っていた場所にある。
* この文章は、JR東日本の新幹線で配布している車内誌『トランヴェール』2011年9月号の特集「奥大道と平泉」として執筆したものに、加筆修正しました。
黄金の国の由来
〜奥大道と中尊寺〜
中尊寺へ上る坂は、その登り口がいささか急で、うっすらと汗が滲む。鬱蒼とした杉木立が、坂を覆っている。樹齢は三百年を下らない、江戸時代に仙台藩が植えた老杉だと云う。この坂を「月見坂」と呼ぶ。これが白川の関から外ヶ浜に至る「奥大道」だ。
天台宗東北大本山関山中尊寺。嘉祥三年( 850年)に慈覚大師円仁が開山したと伝わるこの地に、奥州藤原氏の初代清衡が中尊寺を造営したのは長治二年(1105年)のことであった。清衡は関山に一宇の塔を建てた。「多宝塔」または「多宝寺」と呼ぶ。関山のどこにあったかは定かではないが、ここがみちのくの中心であった。
『吾妻鏡』の文治五年九月十七日(1189年11月3日)の条に曰う、「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也。清衡管領六郡之最初草創之。先自白河関至于外浜。廿余ヶ日行程也。其路一町別立笠卒都婆。其面図絵金色阿弥陀像。計当国中心。於山頂上。立一基塔。又寺院中央有多宝寺。安置釈迦多宝像於左右。其中間開関路。為旅人往還之道」。
月見坂を上る途中に、「東物見」がある。束稲山のふもとの北上川に、霧がかかっているのが見えた。

月見坂を上った正面に、金色堂のかつての鞘堂がある。「五月雨の降のこしてや光堂」。芭蕉が訪れた元禄2年(1689年)、金色堂は、この鞘堂に覆われていた。「兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり」(『おくのほそ道』)。
新しい覆堂は、その左手の経蔵の手前にある。金色堂は、そのなかに眩く輝いていた。巻柱や須弥壇は螺鈿と蒔絵に覆い尽くされ、この世のものとは思えない。芭蕉が光堂と呼んだのも頷ける。「上下四壁内殿皆金色也。堂内搆三壇、悉螺鈿也」と『吾妻鏡』に記された、創建のときの姿をとどめている。棟札によれば、天治元年(1124年)に上棟された。のちにマルコポーロが『東方見聞録』に「黄金の国ジパング」について「宮殿や民家は黄金でできている」と書いたのは、この金色堂のことを伝聞したためだとも言われている。
金色堂の脇の坂を降りると、いまは田畑になっている大池伽藍の跡があった。戦で命を落とした者の魂を鎮め、この世に浄土を現そうとした庭園は、基衡や秀衡に受け継がれていくことになる。ここで発掘された蓮が、片隅の池で花を咲かせていた。
* この文章は、JR東日本の新幹線で配布している車内誌『トランヴェール』2011年9月号の特集「奥大道と平泉」として執筆したものに、加筆修正しました。
浪岡から黒石へ向かう乳井街道をわずかにそれたところに、浄土宗行岳山西光院という寺がある。
決して立派だとはいえない庵だが、門構えにも、境内の古木にも、歴史が感じられる。
●西光院の円空仏(観音菩薩坐像)
もともと西光院の有力な檀家の仏壇に納められていた。そのためか、当初はあったはずの台座が削り落とされ、表面に塗りも施されている。津軽半島の円空仏と同じような作風で、やさしく笑みをたたえている。
円空仏の拝観には事前申し込みが必要
(浄土宗行岳山西光院 0172-62-2376)





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