ライター斎藤博之の仕事

このウェブログは、フリーランス・ルポライター斎藤博之が地域限定の新聞・雑誌または非売品の媒体などに執筆した文章を、広くお読みいただくために、公開することを目的にしています。
斎藤博之は、祭りや民俗芸能・食文化・温泉文化・地域の社会史・地域づくりについて執筆しています。
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菅江真澄のDVDとパンフ

『菅江真澄の歩いた下北』のDVDとパンフレットが、3月末に完成しました。


DVD『菅江真澄の歩いた下北』
構成・台本・監督/斎藤博之
プロデュース/東北エコノス
制作/ITB
製作・発行/下北観光協議会


パンフレット『菅江真澄の歩いた下北』
執筆・写真・編集/斎藤博之
リサーチ/東北エコノス
制作/ITB
製作・発行/下北観光協議会


このDVDとパンフレットは、下北観光協議会の事務局であるむつ市観光課が、希望者への配布の方法を検討しているようです。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 05:00 | trackbacks(1) | comments(0) |
菅江真澄の歩いた下北、案内看板

『菅江真澄の歩いた下北』のDVDとパンフレットが完成したことは、このウェブログでも紹介しました。もともとこの江戸時代の旅人の足跡を辿ることで地域を再発見し、歴史観光に結びつけようというのがねらいでした。

菅江真澄のDVDとパンフ

このたび、菅江真澄が歩いた道を案内することを目的として、下北半島の各地に、菅江真澄が何を見たか案内する看板を立てました。案内板のあるのは、

・願掛岩(佐井村)
・大間の牧(大間町)
・下風呂(風間浦村)
・ちぢりが浜(むつ市大畑)
・石神(東通村)
・恐山(むつ市)
・蛎崎(むつ市川内)
・愛宕山(むつ市脇野沢)
・横浜(横浜町)

の9箇所です。下北半島には、北海道から帰った菅江真澄が上陸した奥戸(大間町)に地元の団体が設置した案内板がありましたが、まだまだ不充分ながら半島のさまざまな場所に看板が出来たことになります。菅江真澄がもっとも長く滞在した秋田県には、菅江真澄の歩いた各地に標柱がありますが、秋田県以外でまとまった案内が建つのは初めてでしょう。

案内看板の内容は、わたしが書いた文章をもとに作られています。下北観光協議会では、案内看板の内容を携帯やコンピューターで閲覧できるサイトも構築する予定なので、完成したらこのウェブログの「OTHER WEBSITE written by SAITOH」にリンクすることにします。
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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 01:38 | trackbacks(0) | comments(2) |
大間の牧(大間町)〜菅江真澄の歩いた下北

菅江真澄の歩いた下北、案内看板で、下北半島に菅江真澄の足跡を辿る看板が立てられたことを紹介した。その看板の解説をわたしが書いたので、これを紹介すると予告しておきながら、果たせぬままになっていた。これから9回にわたり、下北半島の9枚の看板を紹介することにしよう。


 初めは、「大間の牧」である。

 津軽海峡を渡って菅江真澄が上陸した奥戸(大間町)の「奥戸の牧」と、この大間岬を見下ろす「大間の牧」は、ひとつながりの牧場であった。菅江真澄の時代は馬を飼っていたわけだが、盛岡領でも有数の牧場の一つだった。万葉の昔から盛岡領は名馬の産地で、菅江真澄の旅の目当ての一つは、この南部馬を見ることだったのである。南部馬の血を引く馬が、現在も尻屋岬に放牧されている。「寒立馬」(かんだちめ)である。潮風を受ける岬の丘は、放牧に適している。奥戸から大間にかけて、潮風のなか馬が放たれている光景が、江戸時代にはあった。

 じつは、「奥戸の牧」から「大間の牧」にかけては、現在も牧場である。馬ではなく、牛が放たれている。肉牛の黒毛和種だ。その「大間牛」の枝肉が、A5の評価を受けた。A5は最高の等級で、なかなか取れるものではない。大間は鮪が有名になったが、大間の名物は鮪ばかりではない。

 菅江真澄の看板は、牧場の展望台の脇にある。ほとんど知られていない場所だが、大間の町や岬、その先にある弁天島、津軽海峡、そして箱館山が望める。まさに絶景だ。菅江真澄も、ここに立って、同じように海峡と北海道を眺めたであろう。その絵が、真澄の『牧の朝露』に描かれている。

 この絵に真澄が添えた文章のなかに「天妃の祠」が登場するが、この「天妃」とは中国の道教の神で、祠はいまも稲荷神社にある。江戸時代の半ばに、東廻りの航路で勧請されてきた。この海峡は、東廻り、西廻り、北方の航路を結ぶ交通の要所で、文化の交叉点であった。その話は、機会を改めて述べることにする。


 では、看板の文章を、以下に紹介しておこう。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 06:18 | trackbacks(0) | comments(0) |
願掛岩(佐井村)〜菅江真澄の歩いた下北

 菅江真澄は、佐井や牛滝(ともに佐井村)の人びとと親しく交遊した。じつは、真澄が下北半島に渡ってきた理由の一つは、佐井・牛滝を訪れることではなかったかと思われる。奥戸(大間町)に上陸したあと、代官所のある田名部(むつ市)へすぐには向かわず、わざわざ逆の方向の佐井を訪れているからだ。佐井・牛滝で親しくしたのは、自性院別当の岩清水家(箭野根森八幡宮宮司)、役人の渋田家、医者の三上家、牛滝の商人である坂井家で、この地域の有力者であった。

 この佐井や牛滝は、現在では下北半島のなかでも最も遠い、さびれたむらだが、この当時は数多の船が往来していた。西廻りで大坂から来る船と、東廻りで江戸から来る船、それに蝦夷ヶ島の松前や江差から来る船が、ここで荷を交換した。交通の要衝だったのである。わけても、牛滝の坂井家は、真澄が「富人」(とみうど)すなわち大金持ちだと書いているくらいで、その名前は松前で聴いていたであろう。加賀の銭屋との取り引きがあり、造船も行なっていた。この坂井家と医者の三上家は、姻戚関係にあって、三上家が代々江戸で修行できたのも、後ろ盾に坂井家がいたからである。

 佐井も牛滝も大きな湊であったということは、上方や江戸の文化にも、いち早く接することが出来たということだ。もともと国学や本草を学んでいた真澄のことだ、遠く北の地を旅して、こういう知識に植えていたに違いない。坂井家に長逗留してあれこれ文書や絵を見せてもらっているし、岩清水家では和歌の本を借りている。久しぶりに知への欲求を充たすことが出来た。

 この辺りは風光明媚な場所に溢れている。その代表が仏ヶ浦や、願掛岩だ。佐井と牛滝の間を、あるいは船で、あるいは徒歩で通うたび、真澄はこの風景を愉しんだことであろう。仏ヶ浦のことは別の機会に書くこととして、今回は願掛岩に建てた看板に書いた内容を紹介する。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 00:38 | trackbacks(0) | comments(0) |
下風呂(風間浦村)〜菅江真澄が歩いた下北

 佐井と部屋を借りて住むことになった田名部とのあいだの行き来で、菅江真澄は度々ここ下風呂温泉に泊まっている。旅に住む身に、温泉は愉しみの一つだったろう。

 下北半島の津軽海峡を望む海縁の地域を、「北通り」と言う。本州の最果ての地である「北通り」に旧い湯治場があることを不思議に思われるかもしれないが、下北半島は海の交通にとっては要の場所であって、北通りも江戸から来る船・西廻りの北前船・松前と往き来する船で大いに賑わっていた。牛滝・佐井・奥戸・大間・蛇浦・易国間・大畑などの湊があって、代官所のある田名部との往来もあった。そういう人びとが、下風呂の湯で疲れを癒したのである。湯小屋は、ある意味では、情報交換の場でもあった。

 ちなみに、下風呂のすぐ隣りには易国間や蛇浦といった湊がある。「風間浦」という村名は、下風呂の「風」、易国間の「間」、蛇浦の「浦」と、それぞれの集落から一文字ずつ採ってつなげたのであった。

 この当時、下風呂には「大湯」「新湯」という二つの共同浴場があった。宿に湯を引くようになったのはずっとのちのことで、宿に泊まって湯浴みに通っていたのである。大湯と新湯は泉質も異にし、こんにちでも地元の人びとの好みは二分されている。漁師たちは大湯を好む。冷えた躰が温まるのだそうだ。いまでは下風呂の源泉は4つになった。大湯と新湯のほかに、独自の湯を引いている宿が2軒ある。

 それはさておき、人びとが寄り集まって話に花が咲く湯治場の雰囲気が、真澄の文章からも伝わって来る。では、「菅江真澄の歩いた下北」の看板に書いた文章を紹介しよう。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 07:53 | trackbacks(0) | comments(0) |
ちぢりが浜(むつ市大畑)〜菅江真澄の歩いた下北

 下北半島に滞在した二年半ばかりのあいだに、真澄は幾度も大畑を訪ねている。佐井・牛滝と同様に、大畑にも真澄と深く交遊した知識人がいた。村林源助である。村林家は大畑きっての商人で、当主の源助は『原始漫筆年表』を著した文人でもあった。『原始漫筆年表』には、白井英二秀雄(のちの菅江真澄)の名も、二度登場する。

 大畑には、江差の場所を一手に請け負っていた飛騨屋があり、場所請負のあり方が問題となって幕府の直轄領となった蝦夷地と江戸を結ぶ御用船の根拠地となる。ようするに、蝦夷地と東廻りの航路を結ぶ結節点であったわけだ。真澄が大畑に足繁く通ったのも、大畑が情報の集積地であったためであろう。

 大畑の湊は、現在でも川の河口にあって、烏賊釣り船が並んでいる。この川を遡ると、扁柏(ひば)の山だ。飛騨屋など大畑の商人が力を持ったのは、ここに扁柏があったからだ。

 下北半島のうち、大畑から佐井・牛滝までを、「北通り」と呼ぶ。大畑から北通りを歩く途中に、「ちぢりが浜」という名所がある。潮が引くと浜伝いに千畳敷の岩が現れて、歩くことができる。その景観は、真澄が絵に画きとめたそのままに、こんにちまで残っている。では、「菅江真澄の歩いた下北」の看板に書いた解説を紹介しよう。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 01:34 | trackbacks(0) | comments(0) |
恐山(むつ市)〜菅江真澄の歩いた下北

 恐山は、菅江真澄が幾度も訪れた場所である。その回数は下北半島にいた二年半のあいだに五度にわたり、ひと月近くに及ぶ長逗留に及ぶこともあった。菅江真澄は、恐山を「山の湯」と書いている。この時代、恐山は湯治場でもあった。また、こんにちでは夏の大祭につきものと思われているイタコも、真澄の時代の地蔵会には姿がない。じつは、恐山のイタコマチは、ずっとあとの近代になって生まれたものであった。それでも、地蔵会には多くの人が訪れ、死者を偲ぶ姿が、真澄の文章に描かれている。民俗の変わらぬ伝統も、時代とともに大きく遷り変わるところも、真澄が書き留めたことによって、しることができる。こういったことは、このウェブログの[祭りと芸能]恐山に詳しく書いた。重複する点も多いが、「菅江真澄の歩いた下北」の看板に書いた内容を紹介する。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 22:30 | trackbacks(0) | comments(0) |
石神さま(東通村)〜菅江真澄の歩いた下北

 菅江真澄の時代の下北半島は、盛岡領である。盛岡領は広大な土地を、「三戸通り」や「五戸通り」などの「通り」ごとに代官を置いて支配していた。下北半島は、現在の六ヶ所村が「七戸通り」に属していたほかは、「田名部通り」であった。この「田名部通り」じたいも広いので、さらに佐井・大間から下風呂を経て大畑に至る津軽海峡に面した「北通り」、脇野沢から川内を経て大湊に至る陸奥湾に面した「西通り」、現在の東通村にあたる「東通り」、むつ横浜から北上して田名部に至る「田名部通り」に分かたれている。

 「菅江真澄の歩いた下北」の看板は、平成の大合併以前の市町村ごとに、ひとつずつ建っている。ほんとうは、もっと紹介すべき場所もあるので、機会を見て書いていくことにしよう。それはともかく、前回までは「北通り」と恐山をみてきたわけだが、今回取り上げるのは「東通り」である。東通村は、東通り29ヶ村がそのまま明治以降の村となっている。もともと一つの「通り」であっただけに、極めて広い。田名部から北上して津軽海峡の入口へ出たあと浜伝いに尻屋へ向かう道と、田名部から東へ向かい太平洋に沿って八戸へ南下する「北浜街道」が、東通りのなかを走っている。多くの集落が、この二つの街道に沿ってかたちづくられている。

 菅江真澄が尻屋まで旅した日記は、発見されていない。それでも、遺っている日記に登場する東通りの旅のなかで、老婆に親が心配しているから郷に帰るようにと諭されるくだりは、吹雪の大畑で通りすがりの老婆が宿を貸し雑穀の餅をご馳走してくれる条と並んで、下北を歩く菅江真澄の文章のなかでも、もっとも人の心を惹きつける場所であろう。ふるさとの三河へ帰ろうと、このころの真澄はまだ考えていた。やがて、みちのくにとどまる歩みを始めるのではあるが。

 真澄が田名部で見た小正月の行事も、かつては下北じゅうで行なわれていたのだろうが、こんにちでは東通りにもっとも強く残っている。こんにちの行事と、真澄の記録の、同じところと、違うところと。これを読んで、柳田國男は菅江真澄を「民俗学の祖(おや)」と言ったのだった。

 東通りについては書くべきことがたくさんあるが、そのなかから看板では「石神」を取り上げることにした。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 01:17 | trackbacks(0) | comments(0) |
愛宕山(むつ市脇野沢)〜菅江真澄の歩いた下北

 下北半島のうち、南側に陸奥湾を観つつ東西に走る大湊から脇野沢までの浜を、西通りという。脇野沢は、津軽半島と下北半島の間の平舘海峡から、少しばかり廻り込んだ場所にある。この僅かな距離で、まるで波が違う。北前船の風待ち湊となったのも、もっともな理由があった。

 こういうわけで、この街は越前とのつながりが深い。越前から移り住んで来た人びとが廻船問屋を開いていた。街は八幡の社の門前に広がっている。その鳥居に、銭屋の名が刻まれている。八幡宮の祭りの神輿も、神輿行列を先導する新井田瀬野神楽も、北前船で越前から伝わってきた。

 脇野沢の湊に入る船の目印になるのが、沖に浮かぶ鯛島だ。鯛のごとき形をしたこの岩島を廻り込んで陸(おか)を観れば、湊は左手に愛宕の山、右手に八幡の森に抱えられている。菅江真澄が訪れたころの湊は、この入り江に注ぐ川に入り込んだところにあった。

 真澄は牛滝(佐井村)から山越えして、この地を訪れている。いまでこそ国道が付けられているが、このような道は当時はなく、船で行き来するのが当たり前だった。真澄の通った道は、杣夫のほかは獣だけが通うか細いものだったと思われる。真澄はまた、脇野沢から九艘泊までの山道を歩いている。これも、こんにちのような浜伝いの道ではなく、山越えの険しい道だった。山を歩くことを少しばかりも厭わないというところに、いささか驚きもするが、真澄が本草を学んだ人であれば、山についての智恵も人一倍深いものであったろう。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 23:54 | trackbacks(0) | comments(1) |
蠣崎(むつ市川内)〜菅江真澄の歩いた下北

 寛政5年の春(1793年)を佐井や牛滝(佐井村)で過ごした真澄は、西通りの村々を経て田名部へ向かう。脇野沢から川内の湊へ至る途中に、蠣崎という集落がある。中世のころ、ここに蠣崎氏の山城があった。

 蠣崎氏は下北半島を勢力に治める豪族で、安藤氏の本家である潮潟(後潟)城主から津軽半島の平舘(外ヶ浜町)にも領地を与えられていたところから、安藤氏の支配下にあったものと考えられる。根城の八戸南部氏(のちの遠野南部氏)とのあいだの戦に破れて、「蝦夷ヶ島」(北海道)に渡り、松前氏の祖(おや)となった。下北半島が南部氏の版図に組み入れられたこの戦を、「蠣崎蔵人の乱」と呼ぶ。

 安藤や南部の歴史には謎が多く、蠣崎の乱も詳らかなことはわかっていない。蠣崎氏が南朝の胤(おとしだね)を迎えて「北部王家」を建てたとか、恐山の金の鉱脈を領して膨大な富を蓄えていたとか、多くの伝説に包まれている。いずれにせよ根城の軍勢に対峙するだけの力は持ち合わせていた。

 下北半島に渡る以前に「蝦夷ヶ島」で4年をを過ごした真澄のことだから、こういう事情は知っていたに違いない。牛滝の坂井家には「北部王家」と関係があったという言い伝えが遺っているから、真澄も当然これを聴いているはずである。こういうことに真澄が関心を持っていなかったはずはないが、その記述はあっさりしたものに留まっている。真澄の時代の下北半島は盛岡領であったから、蠣崎氏の伝説に触れることは憚られたとも考えられる。

 江戸時代の川内も、北前船の湊であった。山で伐られた扁柏(ひば)が川湊に集められ、造船も行なわれていた。北前船を操った塩飽衆(しわくしゅう)の墓も残されている。加賀の銭屋の支店があり、恐山に石灯籠を寄進している。しかし、どういうわけか、真澄は川内を通り過ぎていく。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]菅江真澄(下北) | 21:03 | trackbacks(0) | comments(0) |


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