ライター斎藤博之の仕事

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斎藤博之は、祭りや民俗芸能・食文化・温泉文化・地域の社会史・地域づくりについて執筆しています。
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南部地方で50年ぶりに焼畑を復活

本日、南部地方で半世紀ぶりに、焼畑が復活します。


主催者:山の楽校(八戸市南郷区世増地区)
日時 :2009年8月2日(日曜日)午後1時半から
場所 :山の学校に隣接する森


 青森県と岩手県に跨る南部地方の、とりわけ「糠部」と称する岩手県北から青森県の三戸・八戸にかけての地域は、かつては東北でもっとも焼畑面積の多い地域だった。畑面積のなかに焼畑が占める割合は、多い集落では5割を超えていた。食べ物を焼畑に依存していたことになる。焼畑の作物は、粟などの雑穀や、大豆・小豆などの豆、それに蕎麦。南部地方の粉食や雑穀の食文化は、この焼畑を背景にしている。

 旧南郷村(現在の八戸市南郷区)も焼畑の盛んだった土地で、とくに世増(よまさり)などの集落では、ほとんどすべての家が焼畑を行なっていた。焼畑を行なえば、樹木の成長が早く、よい森を育てることにつながった。森は赤松を中心とする雑木林で、伐った木を建物に、小枝を炭に焼いて生計を立てていた。焼畑で森を育てることは、こんにちから観れば「循環型農業」で、環境を守る意味でも学ぶべき点は多い。

 ところが、昭和30年代の前半を最後に、焼畑はこの地域から姿を消した。南部ぜんたいでも、このころから焼畑は行なわれなくなった。高度成長へ向かおうとする時期だから、むらびとは現金収入を求めるようになった。山で杉を植えるようになったし、出稼ぎに出るようになった。やがて、山村から若者が流出し、いまや過疎のために森の手入れをする人手がない。

 この世増はダムが出来て移転を余儀なくされた地域だが、水に沈まなかった丘の上に、廃校となった小中学校がある。「山の楽校」と名付け、地域の人びとが運営する体験施設となった。この地域の暮らしを感じ取ってもらうために、地域で伝統的に行なわれてきた、蕎麦打ち、豆腐づくり、味噌づくり、藁細工、炭焼きなどが行なわれている。南郷のグリーンツーリズムを進めて行く、大きな力になっている。この「山の楽校」が焼畑を復活させることになった。

 焼畑の復活により、その生産物の差別化を図り、農家の収入を支える。農家レストランなどで、その作物を使った伝統の料理を提供し、焼畑とともにグリーンツーリズムのコンテンツとする。こうして観光客の遊客に繋がれば、地域を活性化させ、雇用を生み出すことができる。そうなれば、森を維持する手入れも復活させられるだろう。地域の活性化が環境の保全につながるという、先進的な事業になる。そういう青写真をわたしが書き、山の楽校といっしょに準備をすすめてきた。行政の支援を得て、3年間の実証実験を行なうこととなった。

 ほんらいは南部の焼畑は春に火を入れるのだが、準備の都合もあり、今年は山形や会津で行なっているように、夏に火を入れる焼畑を行なってみる。たぶん問題がいろいろ出てくるだろうが、来年以降の春の火入れと比べてみようと言うことになった。南部の焼畑の特徴が見えてくるはずだ。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 02:40 | trackbacks(0) | comments(0) |
火入れの日

 前回予告したように、8月2日、八戸市南郷(旧南郷村)の「山の楽校」で、南部地方で半世紀ぶりの焼き畑を行なった。


 この場所で焼畑の復活なら、ほんとうは「荒墾起こし」(あらきおこし)で、春に火をつけることになる。しかし、準備が間に合わなかったから、今年は土用のころに火入れをする「かの」で蕎麦を作ってみて、来春以降の「荒墾起こし」と較べてみようということになった。

 会津や山形から新潟にかけて「かの」が行なわれているのに対し、南部糠部で「荒墾起こし」が行なわれている理由のひとつは、この土地の風土によると思われるが、どんな条件が「かの」ではなく「荒墾起こし」を択ばせたのかを明らかにできるだろう。

 それにしても、焼畑は気候に合わせた農耕だ。さっそく、この土地での「かの」は、問題に直面することになった。梅雨が明けないのである。

 今年は土用の丑が二回あったが、はじめは一回目の丑の日のあとに焼く予定でいた。ところが、この日取りだと早すぎて梅雨が明けない。それで二の丑の後にしたわけだが、それでも梅雨が明けない。草木も乾かず、火を入れられない。火を入れる時期が遅くなると、作物の種蒔きも遅れ、収穫の前に霜が来ないか心配になる。

 予定の前の日、ようやく晴れ、いくらか草木が乾いてきた。それでも、当日は谷の向こうの岡がどんどん霞み、雨が降り出しそうな気配である。案の定、火は燃え広がらず、しかたがないので、バーナーで一面を焼くことになった。蕎麦の収穫は種蒔きから75日だから、この日に焼いておかないと、霜の被害に会うことになる。

 山形や会津ならば、この日程でも充分なのかもしれない。しかし、南部の気候は遥かに寒い。なるほど、糠部では夏に火を入れる「かの」ではなく、春のうちに種を播く「荒墾起こし」でなければならないのも、肯けようというものだ。

 今回、火を入れるのは、「山の楽校」の隣りの森。この辺りの森は私有地が多く、昔も山主から借り受けて「荒墾」(あらき)を「起こし」、畑にしていたらしい。今回の森の持ち主は、幸いにして「山の楽校」の関係者で、何の問題もなく土地を焼畑に提供していただけた。

 野焼きで山火事になった事故が報道されているので、保険をかけた。面倒な保険を快く引き受けてくれた富士火災に感謝したい。消防署の許可が下りるものかどうかも懸念されたが、消化槽の隣りだということもあり意外に簡単に出来た。地域の消防団の協力も仰ぎ、万が一に供えることも出来た。消防自動車を待機させ、火入れのあと、念のために水を撒いておいた。ただ、その少し後には雨が落ちてきたのではあるが。


* 写真も撮ってあるので暇のあるときに紹介することとして、とりあえず、『毎日新聞』青森県版(2009年8月4日)に掲載したわたしの文章をもって報告とします。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 15:57 | trackbacks(0) | comments(3) |
森とともに暮らす(1)旧福地村の焼畑

 すでにこのウェブログでも報告したように、八戸市南郷の「山の楽校」が、この地域では半世紀ばかり途絶えていた焼畑を復活させた。わたしもプランナーとして参加しているこのプロジェクトは、地域の伝統を掘り起こすことによって、農山村の抱える担い手不足の問題と、地球環境の保全のの問題を同時に解決し、地域の再活性化を図ろうという、一石二鳥も三鳥もねらった試みである。

 この事業に取り組みながら、わたしはあらためて、この地域にとって焼畑とはなんだったのか、を考えさせられた。それは、ひとはどのように森(自然)とかかわってきたのか、という文明史上の問題でもあった。


 数年まえ、旧福地村(現在の南部町)で、焼畑についての調査を行なったことがある。人びとの記憶に遺る程度の、ごく最近まで、この地域では山を拓いて畑にし、数年ののちに森に返すという、循環型の暮らしを営んできた。

 集落が共同で用いる山を「入会」(いりあい)と言う。むらびとはこの入会の山で薪や乳穂(にお)に使う樹を伐り、炭を焼き、茸や木の実を採った。下草は刈って堆肥にし、野には屋根を葺く茅を植えた。屋根を普請する人があれば、9月から10月にかけて、集落総出で茅を刈る。刈るところから屋根を葺くまで集落の協働作業だった。

 戦後になると、木材の建築資材としての需要が高まり、入会も造林に取り組み、伐採による収入を配当するようになる。15年ほどの赤松は、白銀(八戸市)の浜で鰯の煮干の薪になった。畑は4〜5年周期で全員が公平になるよう割り替えるが、残った畑を年数売りして耕作させる。草刈り場も、期限を設けて、貸し出した。萱野地でも屋根を葺く人のない年は茅を売り、農家はこれを買って炭スゴや薦(こも)を編んで手間賃を稼ぐ。

 「山持ち」の山は、5戸ばかりの農家が組んで借り受け、畑を作った。年数が来れば、地主が用意した木の苗を植えて返す。ここに茅を植え、植えた樹の大きくなるまで茅を刈るということも行なわれていた。

 山を畑にするときの伐採は春に行なうので、「春木伐り」と言う。伐り払った跡は、畑にする。焼畑にすることもある。火入れをしなければ3年、焼き払えば4〜5年、耕作する。焼畑には3年もすれば茸が生えると言う。「火入れ」のときは、他に延焼してはいけないので、風のない日を撰び、防火帯を作って、見張りを置く。

 このあとは「あらきおこし」(荒墾起こし)と「畝立て」だ。女性がタチで木の根を切り、男性が鋤で普通の2倍もある大きな畝を作る。こうして、ところどころに種松を残して、畑にする。

 畑には、麦・稗・粟・蕎麦・大豆など雑穀や豆類が多く作付けられてきた。ことに、稗−麦−大豆の二年三毛作は、南部地方に特有の輪作だ。八十八夜を過ぎたころ稗を播き、秋に刈り穫れば麦を播く。翌る年は、やはり八十八夜を過ぎれば麦のあいだに大豆を播き、7月には麦を刈って、豆の葉が落ちてから雪の降るころ大豆を引き抜く。

 こうして、耕作期間を終えれば放置して、松が自然に生えるのを待つ。種として残しておいた松を中心に、次第に松林に戻っていく。その松を間伐しながら、雑木林が出来る。森は人の手が入ることで、維持されてきた。人は森を利用し、森とともに生きる。南部地方の焼畑について、いましばらく見ていくことにしよう。


*この文章は、『毎日新聞』青森県版の連載「斎藤博之の発見あおもり」に掲載したものです。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 05:22 | trackbacks(0) | comments(1) |
森とともに暮らす(2)日本有数の焼畑地帯

 日本列島の焼畑については、九州や中国・四国それに中部地方で行なわれていた慣行が知られているものの、東北地方で焼畑が盛んに行なわれていたことはあまり知られていない。

 山口弥一郎という学者がいた。もともと地理学の人だが、柳田國男の指導で民俗を調べるようになり、東北をフィールドとして、さまざまな著述を遺した。そのなかに、東北の焼畑に付いての調査がある。昭和十年代に調べたもので、そのころは焼畑がまだ普通に行なわれていた。

 その調査の成果が、「東北の焼畑慣行」という書物や「東北地方の焼畑」という論文に纏められ、著作集の第三巻に収められている。これによれば、福島県の南会津や、鳥海山麓など山形県全域、秋田県の森吉から青森県の目屋にかけて、青森県と岩手県に跨る南部糠部地方などが、とくに焼畑の盛んな地域である。山形では、美味しい蕪は焼畑で採れる、と言われていたほどだ。温海蕪などの伝統野菜は、焼畑で作られていたのである。

 ことに、小麦や稗・粟・大豆・小豆・蕎麦など、雑穀や豆類を主食としていた、岩手県から青森県にかけての糠部地方は、焼畑面積のもっとも多い地帯であった。青森県三戸郡の名久井(南部町の旧名川町)・島守(八戸市南郷区)・猿辺(三戸町)、岩手県九戸郡の軽米などである。

 その面積をみると、
・名久井 四六七町歩
・島守  一四一町歩
・猿辺  三一三町歩
・軽米  四〇〇町歩
となっている。耕地に占める焼畑の割合も、島守で一割、名久井や軽米で二割五分を超え、猿辺に至っては四割近い。集落のなかで焼畑にかかわる戸数も、島守で三割、軽米で五割に近く、名久井で七割、猿辺で九割を超える。いずれの数字も、東北の焼畑地帯は言うに及ばず、列島の各地をも圧倒している。

 ぜんたいに東北地方では焼畑を「かの」と呼んでいるところが多いが、西目屋や糠部では「あらきおこし」と呼ぶ。「あらきおこし」(荒墾起こし)は、ほんらいは、「荒墾」(あらき)を起こして畑を拓くということで、火を付けて焼くという意味は含んでいない。じっさい、火をつけない「あらきおこし」が、南部地方ぜんたいで行なわれていたようである。

 火を付けるにせよ付けないにせよ、「あらきおこし」で拓いた畑は、三年から長くても五年で、耕作をやめる。松や栗などの森に戻していくのである。

 南米や東南アジアではプランテーションを拡大する焼畑で熱帯雨林が失われているために、焼畑を環境破壊と結び付けてイメージする読者も多いだろうが、伝統的な焼畑は森とともに暮らす智恵であった。


* この文章は、『毎日新聞』青森県版に掲載したものに、若干の修正を加えたものです。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 22:27 | trackbacks(0) | comments(0) |
森とともに暮らす(3)糠部の「荒墾起こし」(あらきおこし)

 山口弥一郎が昭和十年代に東北の焼畑を調べたところ、岩手県から青森県にかけての糠部地方が焼畑面積のもっとも多い地帯であった。だが、この地域で盛んに焼畑が行なわれていたことは、記憶のかなたに忘れ去られている。

 弥一郎は、じっさいに、青森県三戸郡名久井村(旧名川町、現在の南部町)の水澤という集落を訪れている。焼畑を、この地域では、「荒墾起こし」(あらきおこし)と呼ぶ。松や栗の林の伐採した跡の「荒墾(あらき)を起こす」。南向きで日当たりが良く、土地の肥えている土地が択ばれると言う。これを5年借りて、焼畑にするのだ。

 冬から春先にかけて伐採を行ない、3月から4月にかけて大木を運び出しておく。このあと薪にする雑木をとって、木の葉や小枝を平らにならす。5月、八十八夜のあと、天気の続いた日を択んで、午後の3時ごろ、上のほうから火をつける。

 上のほうから火をつけるのは、下からだと火の廻りが速くて危険なうえ、表面だけが焼けて用を成さないからだ。また、日が傾きかけてから始めるのは、乾燥して燃えやすくなるのと、火が良く見えて焼き終わったことがわかりやすいという理由による。

 火を入れるときは人を頼んで、周りの林に燃え移らぬよう用心する。各々さぶろ・もった・のこ・なたなどの道具を持って、警戒にあたる。夜も数人がこの「あらきば」に野宿する。隅々に穴を掘って、寝ずに番をしたらしい。火入れに立ち会う人びとには夕飯を出し、一杯飲ませる。弥一郎はこの話しを聴いて、「火入れ祝ひでも行ふ如くも感じられた」と書いている。野宿の番には、この当時で10円から20円ていどの謝礼と、夜食のおにぎりが出た。

 焼いたあくる日から2〜3日かけて、「あらきふみ」を行なう。焼いた土地を起こすのだ。これがほんらいの「あらきおこし」の意味で、焼畑にあたる適当な言葉がないので、その意味にも用いるようになったのであろう。

 「あらきふみ」は男女が一組になって、男が「あらき鋤」で起こしたあとを、女が「もった」で「土地打ち」をして畝(うね)をこしらえていく。「あらき鋤」も「もった」も山の斜面で用いるのに適した特別な道具で、しかし「あらきおこし」は相当に体力を消耗した。それを、この地域では、「ゆいっこ」で行なう。

 「ゆいっこ」とは「結い」(ゆい)、むらびとが協働で作業し、お互いに助け合う仕組みだ。今回この人が「ゆいっこ」を「借り」れば、「ゆいっこ」を貸してくれたそれぞれの人が必要とするとき、この人も「ゆいっこ」を「返」さなければならない。そのようにして順繰りに助け・助けられ、お互いを支えあうのである。焼畑は、このような「むら」の助け合いのうえに、成り立っていた。


* この文章は、『毎日新聞』青森県版に「斎藤博之の発見あおもり」として連載したものです。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 17:33 | trackbacks(0) | comments(0) |
森とともに暮らす(4)「荒墾起こし」(あらきおこし)の作物

 昭和十年代に山口弥一郎が聴き取った、青森県三戸郡名久井村(旧名川町、現在の南部町)の水澤集落の焼畑(この土地の言葉で言えば「荒墾起し」)について書いている。弥一郎の記述に沿って、何を作付していたのか、観ていくことにしよう。

 この集落では、「荒墾(あらき)を起こ」した土地に、まず大豆(まめ)を植える。豆植えは、「荒墾起し」と同時に行なった。男性が「荒墾を起す」と、女性が「土地を打ち」、そのすぐあとを別の女性が豆を植えていく。だから、「荒墾起し」と「豆植え」は、ひとつながりの作業なのだ。土が乾かないうちに植え終わるために、こうするらしい。

 ところで、この畝だが、「横には作らない」。よくある段々畑なら山の斜面に水平に畝を立てていくわけだが、ここでは傾斜に沿って縦に作っていく。横だと、雨で畝が流れてしまうからだ。根株があれば、これを除けて曲るので、くねくねと蛇行する。「荒墾起し」ならではの、独特な山の耕作風景になるのだと言う。

 肥料は、一切与えない。また、始めに「起こす」だけで、二年目以降も耕したりはしない。鋤で「きつかえし」するだけである。木の根から芽が増えるために、二〜三度草刈りをする。肥料を与えず、耕さず、僅かに草取りをする程度で、作物は育つ。それがなぜかは、少し後で考えることにしよう。

 ともかく、初めは大豆と決まっている。五月の「荒墾起し」のときに撒き、九月に根ごと引き抜いて収穫する。このあと、翌(あく)る年の五月まで休はませ、八十八夜が過ぎれば、耕さずに粟を播く。やはり肥料は与えず、草取りも二〜三回と少ない。九月から十月にかけて、荒墾鋤で「きりかえし」、麦を蒔く。

 麦は三年目の六月に刈るが、そのまえの五月に大豆を植える。大豆を収穫したあとは休ませ、四年目の五月は稗を植える。籾殻と堆肥と石灰と灰を少し混ぜて撒く。十月に収穫すれば、この年も休ませる。五年目は七月下旬に蕎麦を蒔く。十月上旬、蕎麦を収穫すれば、「そらす」。山に返すのだ。四年目に稗を作らず、蕎麦を撒いて「そらす」こともある。これをまとめてみよう。


* この文章は、『毎日新聞』青森県版の連載に、若干の修正を加えたものです。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 16:13 | trackbacks(0) | comments(0) |
森とともに暮らす(5)大豆と麦の役割

 青森県三戸郡名久井の焼畑について観てきたわけだが、その特徴に「耕さない」「肥料は要らない」「草取りの回数が少ない」ということがある。

 初めに「荒墾(あらき)を起こす」わけだから、「耕さない」と言っても、これは二年目以降のことで、鋤で土を返している。土を返すだけで、耕しているのではない、というのがむらびとたちの認識らしい。

 「肥料は要らない」というのも、四年目には籾殻や堆肥などを播くのだが、それまではほとんど要らないという意味で、普通の畑に較べれば無きに等しい。

 草取りの回数が少ないのは、草が少ないのではなく、木の芽が出るのを摘んでおくということで、そうしないと森に戻ってしまうのだ。他の草も伸びるのだが、草取りは2〜3回に留めておく。

 この焼畑は、自然農法に近い。初めに「火入れ」をして「荒墾を起こす」ところに相当の体力と人手を要するが、あとは普通の畑と較べて手間はかからない。それでも作物が育つのは、森が作った豊穣な土と、輪作の工夫による。

 山口弥一郎が、同じ南部の安家(岩手県岩泉町)で、焼畑についての聴き取りをしている。次の年に「荒墾を起こ」そうとする山では、前年の7〜8月ごろ草木を刈っておく。このころに刈り取れば、その後は草木があまり育たない。翌る年の春5月、火入れをする。焼いたら次の日に「起こ」す。一年目は大豆、二年目は粟、三年目は稗、四年目に蕎麦を作って「そらす」。つまり草木の生えるに任せるわけだが、森に還るのに6〜7年はかかる。

 名久井の「荒墾起こし」と概略は同じように見えるが、冬に麦を付けない、畑にする期間が一年短い、森に還すのに長い時間を要する、という点が異なっている。つまり、名久井の焼畑は、冬に麦を付けるので、畑にする期間が一年長く、森に還るのに要する時間が短い、ということなのだ。

 大豆と麦を輪作の中に組み入れていることが、名久井の焼畑に大きな特徴を与えている。大豆の根に付く菌が土壌の有機物を分解し、麦の根が畑を耕すことに繋がっている。「肥料は要らない」のは大豆の根がバクテリアを育てているからであり、「耕さなくても良い」のは麦の根がその働きをしているからである。こういう条件のもとでは、木もよく育つ。「荒墾を起こ」したほうが森に還りやすいのも肯ける。

 このウェブログで、木村秋則さんの林檎を紹介したことがある(青森林檎の地域づくり)。木村さんの自然農法が、じつは名久井の「荒墾起こし」によく似ている。土を返すものの「耕さず」、肥料を与えない。畝と畝のあいだに豆類と麦類を植えておく。名久井の焼畑の智恵が、いまもっとも注目されている自然農法によく似ていることは、もっと知られてもよい。


* この文章は、『毎日新聞』青森県版の連載に、若干の修正を加えたものです。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 01:21 | trackbacks(0) | comments(0) |
森とともに暮らす(6)焼畑と蕎麦

 南部糠部の焼畑は、耕さず、肥料も要らず、草取りの回数も少ない。それは、大豆と麦を輪作の中に組み入れているからであった。大豆の根に付く菌が土壌の有機物を分解し、麦の根が畑を耕す。それは、木村秋則さんの自然農法によく似ていた。

 大豆と麦を作りながら雑穀を播き、5年目に蕎麦を収穫すれば畑は森に還す。最後に蕎麦を作って森に戻すのが、糠部の焼畑の流儀である。いく年か作物を収穫した一番最後に作るのは蕎麦だから、蕎麦しか穫れない痩せた土地だ、という言い方もする。

 ところが、蕎麦じたいは、けっして痩せた土地を好むのではない。もともと、焼畑に択ぶ土地は、森に育まれた豊かな土地で、日当たりの良いところだった。蕎麦はどんな土地にも育つと思っている人も多いが、ヤマセが強すぎて陽も当たらなければ、蕎麦は稔らない。

 どんな作物も、肥えた土地のほうが、よく育つに決まっている。しかし蕎麦は土地が痩せていても育ち、逆に肥料を与えすぎても良い蕎麦にはならない。少し苛酷な環境のほうが、美味い食べ物ができるのは、その作物が生きようと根をしっかり張るからである。ちょうど焼畑の最後の年の辺りが、南部らしい蕎麦には頃合いというわけだ。

 「南部らしい」と書いたのには、理由がある。その土地によって作られてきた蕎麦の品種は違い、どんな蕎麦が好まれてきたかも違い、そして最後の年に蕎麦を作るのが焼畑の一般的な方法ではないのである。大豆と麦を取り入れながら、最後に蕎麦を作るというやり方は、糠部の焼畑「荒墾起こし」(あらきおこし)に特有の智恵なのである。

 山口弥一郎は、1941年(昭和16年)に津軽の西目屋村大秋で、焼畑の聴き取りを行なっている。これによると、ここには春に焼く「荒墾起こし」と、夏に焼く「夏焼き」とがあった。このうち「荒墾起こし」は男の仕事で、初めに粟、二年目は大豆か小豆、三年目は小豆か大豆と交互に付け、四年か五年で「そらす」というから、わたしが南部の福地で聴き取ったものに似ている。一方の「夏焼き」は女の仕事で、土用のころに焼き、まずは蕎麦を播く。東北の他の地域の焼畑に目をやると、初めに蕎麦を作ることのほうが多い。

 秋田の仙北や福島の会津では、山口弥一郎の調査では、土用に焼くのが普通だった。この地方では、焼畑を「かの」と呼ぶ。「かの焼き」をすれば、まず蕎麦を播く。「かの蕎麦は味がよい」と言うそうだ。二年目に粟、三年目に大豆、四年目に小豆を作って「あらす」。蕎麦は初めの、小豆が最後の作物になっている。南部と同じく蕎麦どころで焼畑地帯だが、いつ焼畑に蕎麦を作るかがまるで逆になっている。


* この文章は、『毎日新聞』青森県版の連載に、若干の修正を加えたものです。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 10:45 | trackbacks(0) | comments(0) |
森とともに暮らす(7)「かの」の蕎麦と蕪

山形の蕎麦街道


 山形県の北村山・最上地方から秋田県の鳥海山麓にかけての地域では「焼畑に蕪菁を栽培するのが目立つた」と、山口弥一郎は『東北の焼畑慣行』に書いている。この地域では、焼畑のことを「かの」と呼ぶ。「第一年目はかのかぶと称して殆ど蕪菁を蒔く。古くはそばがの、あわがの等と言って、蕎麦粟等の焼畑もあつたと言ふが、近年は蕪菁にのみ片寄つた焼畑慣行を維持してゐる」。

 弥一郎がじっさいに足を運んだ尾花沢市の牛房野集落には、こんにちでも焼畑を行なっている人がいる。この地区の蕪を「牛房野蕪」と言い、漬け物にして食べる。かつては焼畑が地域の伝統野菜を育んできた。

 先日、山形県の大蔵村や大石田町・尾花沢市に立ち寄る機会があった。北村山や最上のあたりは、挽きぐるみの真っ黒な蕎麦を板に盛って食べる「板蕎麦」で有名な地域であり、また焼畑地帯でもあった。手打ちの蕎麦屋が数多くあるので、「蕎麦街道」と名づけて、観光に結びついている。

 大石田は、紅花や米を運ぶ最上川の湊のひとつで、湊役所が置かれていた。松尾芭蕉の「五月雨を集めて凉し最上川」は、この大石田で詠まれたものである。ここに次年子や来迎寺などの集落があって、こんにちでも盛んに蕎麦が栽培されている。十数軒の手打ち蕎麦屋があり、「大石田蕎麦街道」と名づけられている。

 来迎寺の「なんば」という蕎麦屋に寄ってみた。この集落では、どの家でも、蕎麦打ちは姑から嫁へと受け継がれてきた。来迎寺地区にだけ伝わる在来の蕎麦を畑に作り、これを丸抜きにして石臼で挽き、十割の蕎麦を打つ。丸抜きだが、寒暖の差が激しいために澱粉が多く、湯ごねにする。冬から春先にかけて、人が集まるときに蕎麦を打って振る舞った。冷たい蕎麦を板に盛るが、これを鶏の肉汁につけて食べる。「なんば」は、この来迎寺のもともとの蕎麦切りを食べることができる店だ。

 その「なんば」のお爺さんに、焼畑の話しを聴いた。昭和十年代まで、来迎寺でも盛んに焼畑が行なわれていた。焼畑のことを「かの」と言う。雑木の林や草地を切り払い、火をつける。「かの」に作るのは専ら蕎麦で、この地区では蕪は作らない。連作はせず、すぐに林に戻す。やはり、蕎麦は焼畑で作られていたのだった。

 来迎寺の在来種は、その甘みに特徴がある。最上早生に較べて収量も多く、この土地に適しているらしい。明治以前から作付けされてきたこの品種は、伝承に拠れば、北前船で九州からもたらされたのだと言う。なるほど、最上川船運の土地である。

 蕎麦という作物は、たちどころに交雑する。大石田では、純粋な来迎寺在来種を選り分けて町の特産とし、地域の活性化に取り組んでいる。


* この文章は、『毎日新聞』青森県版の連載に、若干の修正を加えたものです。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]焼畑 | 21:20 | trackbacks(0) | comments(0) |
森とともに暮らす(8)近代化とは別の進歩

石臼以前のこと


 前回は、焼畑は原始的な農業ではない、ということを書いた。もう少し正確に言えば、焼畑は農業の古い姿かもしれないが、こんにちまで山村に残ってきた焼畑が必ずしも古い姿のまま残っているのだとは考えにくい。

 この列島で焼畑がいつから行なわれていたかということについては、最近になってようやく考古学の分野でも研究されだした。縄文時代に農耕が行なわれていたということですら、三内丸山遺跡の発掘などで明らかになってきたばかりだ。焼畑があったかどうか、あったとすればどのような焼畑であったかは、これからの研究課題である。

 いずれにせよ、焼畑は相当に旧い時代から行なわれてきたと思われる。しかし、それが「荒墾起こし」(あらきおこし)や「かの」など、東北でこんにちも行なわれていたり、またはごく近年まで行なわれてきた焼畑と同じ方法であったとは言えない、というのがわたしの考えである。

 たとえば「荒墾起こし」を考えてみよう。これにもその土地ごとにさまざまなやり方があるが、春に火をつけて、大豆・小麦・粟・小豆などの順序で作ったあと、最後に蕎麦を播いて森に戻す、というものであった。畑にしている期間が4〜5年と、ほかの焼畑に較べて長いのが、その特徴である。

 この焼畑が、南部地方の雑穀の文化、とりわけ粉食の文化の基盤にあることがわかる。南部地方には小麦や蕎麦を粉に挽いて作る郷土料理が、じつに多い。もんだいは、この「挽く」という技術である。粉に挽くことができるからこそ、小麦や蕎麦が輪作の要の部分に取り入れられたわけだ。

 小麦や蕎麦を挽く道具は、水車小屋の「ばったり」や、石臼である。その石臼がそれぞれの農家に普及したのは、近世になってからだと考えられている。それならば、それ以前から焼畑はあったにせよ、小麦や蕎麦を作付けることは多くはなかったのではないか。つまり、石臼が普及した時代に、南部地方の焼畑は、始めに大豆や小麦を作り、最後に蕎麦を播くという方法に発展したのだ。肥料を与えなくても長く畑を作ることができる画期的な方法は、焼畑農法の大きな進歩であったはずだ。

 もちろん、焼畑で蕎麦を作るということは、それ以前にもあった。なにしろ、田子の石亀遺跡から蕎麦が見つかって、縄文時代から畑で蕎麦が作られていたことがわかった。だが、頻繁に蕎麦を食べるのは、粉にすることが前提となる。

 「かの」についても、同じことが言える。「蕎麦がの」が近世以前に遡れないのは、「荒墾起こし」と同様である。「蕪かの」にしても、畑のあとに桑や杉を植えるのであれば、養蚕や製材があってのことだろう。


* この文章は、『毎日新聞』青森県版の連載に、若干の修正を加えたものです。

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