ライター斎藤博之の仕事

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義経伝説は、なぜ北を目指したか(序)

ロマンは北へ


 遥か陸奥(みちのく)は遠い。異なる人びとが住まう場所だという偏見が、「蝦夷」という言葉には表れている。言わば、みちのくは化外の地、異界への通路であった。

 だが富は、つねに異界からもたらされる。古代、みちのくはこの列島で唯一の金を産する土地であった。「すめろぎの御代栄えんと東なるみちのくの山に黄金花咲く」。天平の昔、陸奥国守百済王敬福が朝廷に献上した黄金の産地は、いまの宮城県涌谷町にある黄金山神社にあたる。化外の地と思われていた「みちのく」は、じつは豊かな土地だったのである。

 貴族支配が終わりを告げようとしていた11世紀の末から12世紀末までの百年、このみちのくに半ば独立国のごとき繁栄が訪れた。藤原清衡から基衡・秀衡・泰衡に至る4代、中尊寺の金色堂に象徴される奥州平泉の文化は、のちにマルコポーロが「黄金の国」と憧れを抱く「日本」というイメージの原型となった。白河から津軽へ至る街道を作り、十三湊から大陸や北方世界へと繋がる交易を、平泉の政権は背景に持っていた。そうして集めた富を朝廷や貴族に贈り、奥州の自立を認めさせていた。

 源頼朝が現れて鎌倉に幕府を開こうとするころ、京の都にあった権力も崩れ去り、また「黄金の国」みちのくも敗れ去った。その時代、この異界への通路を北へ向かって駆け抜けた男があった、という伝説がある。源九郎判官義経。

 滅ぼされたはずの義経が生きて北へ向かったという伝説はなぜ生まれたのか。


 そもそも、源義経という人物には謎が多い。史実としては、源氏の頭領義朝の末子で頼朝とは腹違いの弟にあたること以外に、木曾義仲を討つまでのその前半生に何ひとつ詳らかなことはない。鞍馬の山で兵法を習ったことも、武蔵坊弁慶と五条の大橋で出会ったことも、金売吉次に伴なわられて奥州平泉へ下ったことも、みな後の世に成立した『平治物語』や『源平盛衰記』『義経記』など文学の世界に属する。

 義経という武将がどのように誕生したかということが謎に包まれているように、その死もまた謎のなかにある。ただ『吾妻鏡』の文治5(1189)年閏4月晦日の条に、
――今日、陸奥の国にて、泰衡、源予州(義経)を襲う。これ、勅令の定めに任じ、頼朝の仰せに依るところなり。与州(義経)は民部少輔基成朝臣の衣河館にあり。泰衡、数百騎の兵を従え、馳せてその館に至り、合戦す。与州(義経)と家人ら、相防ぐといえども、ことごとく敗れるをもって、与州(義経)持仏堂に入り、まず妻(二十二歳)と子(四歳)を害し、次いで自らを殺す、云々――
とあるばかりだ。『義経記』に登場する弁慶が仁王立ちのまま死んだことや、自害のあと館に火をつけたことなどは、義経が死んで二百年もたった時点で編まれた物語だ。

 中世に現れた物語では、いずれも義経は泰衡に攻められ自害したことになっている。いったい義経が生きて北へ逃げ延びたという説話は、いつ誕生したのだろうか。


 父林羅山の跡を継いだ鵞峰の、寛文10年(1670年)に著した『続本朝通鑑』に、「或曰、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今」(あるいは曰く、衣川の役にて義経死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種存す)とある。これが、義経は生きていたという説の、もっとも古い記述であろう。

 次いで貞享5年(1688年)、徳川光圀の編んだ『大日本史』も「世に伝う。義経衣川の館に死せず、逃れて蝦夷に至ると。いま東鑑を考えるに、閏四月己未,藤原泰衡、義經を襲いてこれを殺す。……六月辛丑、頼朝、和田義盛と梶原景時とを使わしてその首を検める。その間へだたること四十三日、天は時に暑熱なり。たとえ函に酒を浸すといえども、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。されば、すなわち義経死を偽り、逃げ去らんや。いまに至って夷人は義経を崇め奉り、これを神として祀る」と書いた。

「世傳義經不死於衣川館、遁至蝦夷。今考東鑑、閏四月己未,藤原泰衡襲義經殺之。五月辛巳、報至、將致首于鎌倉。時源鯆慶鶴岡浮圖、故遣使止之。六月辛丑、泰衡使者齎首至腰越、漆函盛之、浸以美酒。鯆使和田義盛、梶原景時檢之。己未至辛丑、相距四十三日、天時暑熱、雖函而浸酒、焉得不壞爛腐敗、孰能辨其真偽哉。然則義經偽死而遁去乎。至今夷人崇奉義經、祀而神之、蓋或有其故也」(『大日本史』巻之一百八十七列伝一百十四)

 『大日本史』は光圀が水戸藩に彰考館を設けて編纂させたもので、その総裁である佐々宗淳(むねきよ、介三郎)や安積澹泊(たんぱく、覚兵衛)は、大坂の講釈師玉田玉知の改作した講談『水戸黄門漫遊記』の登場人物となった。ただし、光圀が供を連れて諸国を行脚した事実はない。じっさいは佐々宗淳などを各地へ遣わして、その地域の歴史や伝承などを調べさせたのであった。

 それはともかく、水戸の黄門の編んだ書物に、義経は衣川では死なず逃げたとあり、そう考えることの理由を掲げたことの影響は大きい。『大日本史』の論じた義経生存説は新井白石など名だたる学者の踏襲するところとなり、こんにちでも義経北行説を唱える者の論拠はその域を出ない。新井白石の『読史余論』も、『大日本史』とほぼ同じ論拠を揚げたあと、蝦夷地(北海道)の伝説に触れて、いくばくかこれを補強すしただけに過ぎない。「義経手を束ねて死に就くべき人にあらず、不審の事なり。今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。又夷人飲食に必ずまつる、そのいはゆるヲキクルミといふは即ち義経の事にて、義経後には奥へゆきしなどいひ傳へしともいふなり」(『読史余論』巻三「鎌倉殿分掌天下之権事」)。

 さらに、“義経は金に渡って将軍になった”とする『金史別本』や、“義経は清朝の祖となった”と書く『図書集成』などの偽書も現れて、これが『鎌倉実記』(1717年)などに引用されている。こうなると伝説が伝説を生み、挙げ句は“義経がチンギス・ハーン(ジンギスカン)になった”という珍説も生まれた。義経ジンギスカン説の始まりは、シーボルトの『日本』(1832年)かもしれない。

 大正3年(1914年)、小谷部全一郎が『成吉思汗は義経也』を出版した。小谷部は十数年のあいだアイヌの子弟教育に携わった人物で、この本は大いに評判となったらしい。これに金田一京助らが『成吉思汗は義経にあらず』を書いて反論する。その論争が、義経の生死についてのその後の議論の原型である。なお、小谷部が大正8年(1919年)から十数年にわたって陸軍の依頼でシベリアや蒙古の調査をしていることもあって、義経がチンギス・ハーンであるという説がこの時期に流行したのは、小谷部がアイヌや北方諸民族あるいは大陸への侵略支配を正当化するイデオローグとなっていたからだという見方をする人びともいるが、貴種流離譚をここまで飛躍させてしまった理由は、もっと伝説の物語構造に内在して考える必要があるだろう。

 小谷部が主張した説は、昭和33年(1958)に出版された高木彬光の小説『成吉思汗の秘密』(角川書店)で、より一般に広く知られるようになった。高木の小説はほとんど小谷部の焼き直しといってよい。最近では、高橋克彦が平成5年(1993年)に著わした『東北歴史推理行』もこれを踏襲している。いずれにせよ、小谷部とその追随者の揚げている論拠は、すでに水戸黄門からシーボルトに至る論者が繰り返し述べ、少しずつ膨らませてきたものをなぞっているに過ぎない。

 さまざまな時代にそれぞれの義経伝説が生まれた。その伝説が奥州や、さらに北方へと広まったことであろう。義経という貴種の流離譚に依拠して、蔑まれていた北方世界は自らのロマンを語ったであろう。


 義経は生きて北方へ向かったという伝説は、いまでも岩手県から青森県にかけて残っている。義経が立ち寄ったという伝承の残っている地名を挙げていこう。束稲山、江刺、遠野、釜石市室浜、山田、宮古、田老、岩泉、田野畑、普代、久慈(ここまで岩手県)、階上町榊、八戸市、名川町の法光寺、六ヶ所村平沼、野辺地町馬門、青森市野内の貴船神社、青森市松森、青森市油川、五所川原市市浦の十三、今別町袰月、今別町今別、外ヶ浜町三厩の義経寺(ここまで青森県)。ほかに気仙沼にも伝承があり、ところどころ幾筋かに分かれたりするものの、義経が北へ向かう道筋は、伝説のうえでは、陸を行くルートも、三陸の海を船で渡るルートも、基本的には真っ直ぐ津軽海峡を目指している。

 その途中途中では、宿を借りた家に「判官」という名字を許したり(気仙沼、八戸市白銀)、風呂を貰ったからと「風呂」の名字を与えたり、あるいは榊を持って参宮にお供したからと「榊」の名乗らせたり(階上町榊)しており、その名字を守る家が今も残っている。

 青森県内の伝承をみれば、八戸近郊には、さまざまな場所に伝説がある。さらに北上して六ヶ所村平沼に至る。ここには橋本与治右衛門を名乗る旧家があり、江戸時代の南部藩の商人番付に登場するほど大きな商いをしていた家だが、義経はこの橋本家に宿したと言う。さらに、橋本家の当主が野辺地の間過度を経て、青森市野内の貴船神社まで案内したことになっている。貴船神社境内に建つ比較的最近の石碑によると、文治5(1189)年に義経はこの村を訪れたと言う。ここで義経を慕って追って来た浄瑠璃姫と会った。しかし姫は長旅で病に伏したため、野内に残ることとなった。

 こういった伝説のすべてを、新しいものだと片付けてしまうわけにはいかない。たとえば、津軽海峡を渡る直前の三厩に伝わる伝説は、菅江真澄も書きとめており、少なくとも菅江真澄が三厩を訪れた二百年以上前までは、遡ることができるからである。

 延宝3(1675)年に当時の義経寺住職が古櫃のなかから見つけた古い縁起を書き写したという『竜馬山観音縁起』によれば、義経は津軽海峡を渡るとき、いまは観音堂となっている岩の上で、常日ごろ懐に持っていた観音蔵を拝み、波の静まるのを祈って待った。その観音は、この場所に残されていたという。のちに円空(?〜1695)がこの地を訪れ、観音像を彫り、その胎内に義経の観音像を納めた。庵を結んでこの円空仏を安置した。真澄も書いているこの寺の縁起である。

 三厩から北海道は近い。津軽海峡は「しょっぱい川」だと言われるほどで、本州と北海道を隔てるものではなく、逆に人びとの交流を結びつけるものだった。すぐ目の前にもうひとつの陸を見れば、ロマンがこの海を渡らぬわけがない。


 義経伝説は北海道にもある。平取には「義経神社」もあるくらいだ。安藤氏を頼って義経は海を渡ったのだという人もいる。たしかに渡島半島は、十三湊を拠点とする安藤氏の支配する領域だったことを考えれば、ありえないことではないと思わせる。

 それにしても、仮に安藤氏を頼って義経が北へ向かっていたとすれば、なぜ「奥の大道」を行かなかったのであろう。平泉の初代・清衡は白河から津軽に至るまで一町ごとに傘卒塔婆を建て、この道を整備した。平泉からこの道を鹿角・矢立・藤崎と北上すれば、十三湊まではすぐである。

 しかし、伝説についてあれこれ詮索するのは止めよう。日本人はみな「判官びいき」である。義経が検非違使左衛門小尉(判官)であったために、この種の悲劇の主人公に思いを寄せることを、「判官びいき」と呼ぶようになった。そのうえ、義経という貴種が北方の異界へ向かうことによって、さらなる力を得て復活するであろうと願うことは、ある種のロマンでありうる。「化外の地」と見下されているみちのくの民であれば、なおさらのことであろう。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 17:45 | trackbacks(0) | comments(0) |
義経伝説は、なぜ北を目指したか(序2)大河兼任

われこそは九郎判官義経なり
〜大河兼任の乱〜


 義経が衣川の館で自害し、平泉の藤原氏が滅びた文治五年の年の瀬、死んだはずの義経が奥州で兵を上げたという知らせが鎌倉を驚かせた。『吾妻鏡』は記す。

「(十二月)廿三日 戊申 奥州の飛脚去る夜参り申して云く、與州並びに木曽左典厩の子息及び秀衡入道の男等の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に発向せんと擬すの由謳歌の説有りと」

 文治五年十二月廿三日は、新暦に直せば1190年2月6日にあたる。「與州」というのは義経のこと。壇ノ浦の戦いで平家を打ち滅ぼした元暦二年(1185年)、元号が文治に改まった八月十六日(9月18日)、義経は朝廷から伊予守に任ぜられている。前の年に賜った左衛門尉・検非違使少尉を兼ねている。長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)という四等官のうち、左衛門尉・検非違使少尉が判官にあたるところから、義経のことを「九郎判官」と言い、伊予(予州)の守であったことから、義経のことを「予州」とも呼ぶ。

 いずれにせよ、予州は閏四月の晦日(1189年6月15日)に死んだはずである。六月十三日(同年7月28日)には鎌倉で首実検までした。その義経が、元暦元年(1185年)に滅ぼされた木曾義仲の息子に、九月に討たれた藤原秀衡の息子とまで合力して、鎌倉に攻め入ってくると言うのである。三人の亡霊は頼朝にとって恐ろしいものであったに違いない。義経だけでも充分に恐ろしいのに、義仲の遺児に、奥州藤原の一族まで加わって鎌倉に攻めて来るというのである。悪霊の存在が、いまより遥かに強く信じられていた時代であった。

 いや、鎌倉の武士たちは、義経は生きていると思ったかもしれない。すぐに兵を差し向ける仕度に入る。まずは北陸に備えをする。「仍って勢を北陸道に分け遣わすべきかの由、今日その沙汰有り。深雪の期たりと雖も、皆用意を廻らすべきの旨、御書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱已下越後・信濃等の国の御家人に遣わさると。俊兼これを奉行す」。

 次いで、奥州に兵を向ける用意をする。「廿四日 己酉 工藤の小次郎行光・由利の中八維平・宮六兼仗国平等奥州に発向す。件の国また物騒の由これを告げ申すに依って、防戦の用意を致すべきが故なり」。これが報せを聴いた次の日のことだ。鎌倉が慌てふためいている様子がわかる。


 この乱の実態が明らかになるのは、年が明けて、文治6年正月六日(1190年2月18日)のことであった。「(正月)六日 辛酉 奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ」。

 「われこそは、九郎判官義経なり」と言ったかどうか。ともかくも叛乱軍は、奥州の侍には人気があったらしい。わずかのあいだに兵を集める。義経の名を騙って兵を起こしたのは、秋田五城目領主・大河兼任。安倍頼時の5代の裔だと言い、それが正しければ、同じく安倍氏の血を引く奥州藤原氏の係累にあたる。

「その路河北・秋田城等を歴て、大関山を越え、多賀の国府に出んと擬す。而るに秋田大方に於いて、志加の渡を打ち融るの間、氷俄に消えて五千余人忽ち以て溺死しをはんぬ。天の譴を蒙るか」

 初め7千騎を率いて多賀城へ向かったが、途中融けた氷を渡りそこねて5千の兵を失い、逆に北を目指す。

「爰に兼任使者を由利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親若くは夫婦怨敵の者に報ずるは尋常の事なり。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独りその例を始めんが為、鎌倉に赴く所なり。仍って維平小鹿嶋大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、防戦両時に及ぶ。維平討ち取られをはんぬ。兼任また千福山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑色澤安等を殺戮すと。これに依って在国の御家人等面々飛脚を進し、事の由を言上すと」

 秋田・津軽で鎌倉方の御家人を蹴散らし、ここで兵を蓄えて、その勢いは暫らくは止まらない。「正月十八日 癸酉」には「葛西の三郎清重去る六日の飛脚奥州より参着す。申して云く、兼任と御家人等と箭合わせすでにをはんぬ。御方軍士の中、小鹿嶋の橘次公成・宇佐美の平次實政・大見の平次家秀・石岡の三郎友景等討ち取らるる所なり。由利の中八維平は、兼任襲い到るの時、城を棄て逐電すと」いう状態であった。さらには、「二月六日 庚寅 辰の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月二十三日彼の国を出をはんぬ。その日未だ下着の軍兵無し。爰に兼任等逆賊の群集蜂の如しと」。

 一方の頼朝の軍勢はというと、わざわざ「方々の勢共の中に、塩釜以下の神領に入り、狼藉を現すべからずと」注意を与えねばならないくらいで、頗る評判は悪かった。

 兼任の軍勢は、平泉に入ったときには一万騎もの軍勢となっていた。ついに奥州藤原氏の都とも言うべき平泉を鎌倉勢から奪い返し、ここから鎌倉へと向かっている。

「二月十二日 丙申 軍士並びに在国の御家人等、兼任を征せんが為発遣す。この間奥州に群集す。各々昨日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問うの処、兼任一万騎を率い、すでに平泉を出るの由と」。


 だが、兼任の勢いもここまで。衣川の合戦に破れて、再び北へ逃げる。外ヶ浜(津軽半島の陸奥湾側)と糠部(南部地方)のあいだの「たうまい」(善知鳥崎)の山を城となし、しばらくは持ちこたえたらしい。だが、ここを破られると、姿をくらました。

「今日千葉の新介等馳せ加わり襲い到り、栗原一迫に相逢い挑戦す。賊徒分散するの間、追奔するの処、兼任猶五百余騎を率い、平泉衣河を前に当て陣を張る。栗原に差し向かい、衣河を越え合戦す。凶賊北上河を渡り逃亡しをはんぬ。返し合わすの輩に於いては悉くこれを討ち取り、次第に追跡す。而るに外浜と糠部との間に於いて、有多宇末井の梯、件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞す。上総の前司等またその所に馳せ付く。兼任一旦防戦せしむと雖も、終に以て敗北す。その身逐電し跡を晦ます。郎従等或いは梟首或いは帰降と」

 こうして、いっときは破竹の勢いだった大河兼任も、最後は一人落ち延びるところを討たれている。

「(三月)十日 甲子 大河の次郎兼任、従軍に於いては悉く誅戮せらるるの後、独り進退に迫り、華山・千福山本等を歴て、亀山を越え栗原寺に到る。爰に兼任錦の脛巾を着し、金作の太刀を帯すの間、樵夫等怪しみを成す。数十人これを相圍み、斧を以て兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正以下に告ぐ。仍ってその首を実検すと」

 文治六年三月(1190年4月)、三ヶ月ばかりで乱は終わった。これが鎌倉幕府の正史にあたる『吾妻鏡』から知り得る兼任の乱の顛末である。


 菅江真澄は、天明八年(1788年)に「うたうまへのかけはし」を訪れたことを、『率土か浜つたひ』(外ヶ浜伝い)に書いている。

「七月七日、うたうまへのかけはしを渡る。国人は、とうまへのかけはしともはらいへり。高岸の岩つらに、尋(ひろ)斗の板をわたしてあやうげ也。ふりあふげば木の中に婀岐都が窟とて、むかし、あら蝦夷人のこもりて、行かふふねをうちとどめて宝をうばひたりしと、げにやさかしき処に、人さらに至らぬいはやど也」。

 真澄は四年前にも、この「うたうまえのかけはし」を観ようとした。しかし、青森から向かう途上で、逃散する人びとに出会う。天明の大飢饉で、他国へ逃れようとしていたのだ。これはまずいと思ったのであろう。「うたうまえのかけはし」に行くのは諦め、蝦夷ヶ島へ渡るのも諦め、平泉などを巡って時が来るのを待った。

 奥州街道の浅虫から久栗坂へ至る途中に、善知鳥崎がある。奥州街道の難所であったらしい。波の高い日は、ここを通ることは叶わなかった。そこで、この区間の奥州街道には、もうひとつ山越えの道があったほどである。明治9(1876)年、天皇の巡幸のおり、崖を削って崎を回りこみ、容易に通れるようになった。現在の国道からそれて海側にある遊歩道がそれで、近世以前の街道は海に迫り出した岩の上にあった。

 義経を騙って乱を起こした秋田五城目領主・大河兼任が最後の砦とした「有多宇末井の梯」は、この善知鳥崎であるという説があり、おそらく真澄もそう考えていただろう。兼任が籠もったと推定される山のさらに上に、蝦夷館跡がある。

 いずれにせよ、真澄は「善知鳥崎の梯」を渡って、蝦夷ヶ島へ向かった。それは、伝説の上で、義経が北へ向かう道であった。そのことを真澄が意識していたかどうかはわからない。わかっているのは、義経の死後に義経の名を騙って兵をを挙げた勢力があり、その兵たちが平泉より北、すなわち糠部・秋田・津軽に根を下ろしていたということである。少なくとも、彼らは鎌倉には従わないという自立の志を持っていた。その志を江戸には向かわない旅人も共有していたと、想像してみたくなる。そういう種類の想像力が、義経が北へ向かったという伝説の背景にあったであろう。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 20:00 | trackbacks(0) | comments(0) |
義経伝説は、なぜ北を目指したか(序3)御曹子島渡り

鞍馬の天狗と、鬼一法眼と、蝦夷の大王と
〜伝説を語ったのは誰か?〜


 『御伽草子』は室町時代から江戸時代にかけて成立した物語文学で、享保年間(1716〜1735)に大坂で出版されて、この名前が定着した。渋川清右衛門の編んだものである。その版の23編のなかに、「御曹司島渡り」がある。源平の合戦に及ぶまえ、鞍馬の山を出て平泉に身を寄せていたころの義経についての伝説だ。

 秋田県立図書館に、この『御曹子島渡り』の絵巻が所蔵されている。彩色の挿絵と本文が交互に現われる「奈良絵本」だ。『御曹司島渡り』の奈良絵本は少なく、こんにちまで残っているのは5本のみ。秋田県立図書館の絵巻は、室町末から江戸初期に作られたものだと推定されている。ここに書かれた物語じたいは室町時代に成立した義経伝説だ。

 その内容は、平泉の秀衡のもとにいた御曹子(義経)が、「蝦夷が島」の「千島の都」に渡り、「大日の法」という兵法の書を手に入れ持ち帰ってくる、というものだ。


 『平治物語』や『平家物語』『義経記』などが語り、幸若舞や猿楽・浄瑠璃などに描かれる義経は、「源氏の頭領義朝の九男として生まれ、牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が斃れ、鞍馬寺に預けられる。しかし僧にはなることを拒み、奥州へ逃れた」ことになっている。義経が死なずに北へ逃れたという伝説より先に、すでに中世の文芸のなかで兄の頼朝と出会うまでの伝説が成立していた。

 幼き日の義経が鞍馬山にいたかどうかはわからない。しかし、物語のなかで、義経が尋常ではない力を身につけるためには、鞍馬山という舞台が必要だった。鞍馬山が、天狗の棲む聖地だったからである。

 もっとも早くに成立した『平治物語』では、鞍馬寺に弟子入りして「遮那王」となった牛若が、鞍馬山の天狗に夜な夜な剣術を習う。「御曹司島渡り」と同じ『御伽草子』のなかにある「天狗の内裏」でも、鞍馬の寺に上った牛若は、毘沙門天の導きで「天狗の内裏」へ行き、愛宕山の太郎坊・比良山の二郎坊・高野山の三郎坊・那智山の四郎坊・神倉山の豊前坊という5人の天狗の秘術を尽くした兵法を見る。

 京の都の鬼門・丑寅の方角に位置する鞍馬寺は、毘沙門天と観音菩薩を祀る寺で、初めは真言の、後には天台に属する修験の拠点だった。天狗は山の神の化身であり、山伏たちの信仰のなかにも取り入れられていった。


 ところで、室町時代に成立する『義経記』では、一条堀川に住まう陰陽師・鬼一法眼(きいちほうげん)の娘と通じて伝家の兵書『六韜』を盗み学んだ。『六韜』(りくとう)は中国の兵法書で、「文韜」「武韜」「龍韜」「虎韜」「豹韜」「犬韜」の6巻があり、このうちの「虎韜」すなわち「虎の巻」が「秘伝の書」を意味する慣用句になった。

 中世には朝廷の陰陽寮を離れ、聖(ひじり)のように遊行する法師に担われるようになった陰陽道は、民俗信仰や山岳修験と交じり合っていった。鞍馬の山にある貴船神社も陰陽師の法師の信仰とかかわりがあったことが、『御伽草子』の「貴船の本地」に阿部晴明が鬼と化した女の呪いを調伏する話があることからも知れる。

 中世に成立した義経伝説は、平家語りや山伏・聖・法師たちの手で育てられていったのだと思われる。そのなかから、義経に超人的な力を与える兵法の秘伝が、陰陽師によってもたらされたという物語が生まれたのだろう。


 蝦夷ヶ島の大王から『大日の法』を盗み出すという『御曹司島渡り』の物語は、陰陽師から『六韜』を盗み出すという『義経記』の物語に良く似ている。陰陽師の持つ秘伝の書『六韜』が、蝦夷ヶ島の大王の『大日の法』に変わっただけだ。

 『天狗の内裏』でも、牛若が八歳にして『大般若経』六百巻などに並んで、「鬼が読みける千島の文」を読み明かしたことになっている。義経に力を与えるものは、初めは「鞍馬山の天狗」であったが、これに陰陽師が加わり、さらには「蝦夷ヶ島」の大王や鬼も加わっていく。異界についてのイメージが、少しずつ変化しているわけだ。

 しかし、ここでは「天狗」や「蝦夷ヶ島の大王」「鬼」といったものは、この世のものならざる力を与える存在であって、成敗調伏されるべき対象ではない。そして、その力を象徴するものが、たとえば「大日の法」である。

 「大日」というのは「大日如来」のことであろうから、その如来の法が力の源泉であるとする物語の構造は、少なからず密教の影響を受けていることになる。異界からもたらされる力を、山伏・聖・法師たちが持っている。それが、この物語の隠れた話者を語っている。


 『御曹子島渡り』では、義経は「とさ」の湊から「蝦夷が島」へ発ち、ふたたび「とさ」の湊から平泉へ戻ってくる。「四国の土佐」と書かれているが、北へ向かう湊であれば、同じ「とさ」でも四国の土佐ではなく、「十三」のことであろう。

 十三湊は『廻船式目』の三津七湊のひとつであった。「三津」は筑前の博多津・摂津の堺津・伊勢の安濃津、「七湊」は越前の三国湊・加賀の本吉湊・能登の輪島湊・越中の岩瀬湊・越後の今町湊(直江津)・秋田の土崎湊・津軽の十三湊である。

 この十三湊の遺跡から、朝鮮半島や中国大陸との交易でもたらされたものが、数多く発掘されている。また、平泉の中尊寺に見られるものと同じ形式をもつ12世紀の金メッキの金具も出土し、この湊が奥州藤原氏の平泉と密接な関係を持っていたことが推測される。

 十三湊は北方との交易の拠点だったから、異なる世界への扉は当然この十三湊でなければならなかった。「御曹子島渡り」は、北方との交易の様相が広く中央にも知られるようになった事実を反映しているものと考えられる。

 異界へ渡り、生まれ浄まって、新たな力を身につけて甦る。これは典型的な貴種流離譚である。平家との戦をまえに義経が平泉から蝦夷地へ渡るという物語が、はじめにあった。この物語がベースにあれば、再び平泉へ逃れた義経に、また蝦夷地で甦ってほしいと期待するのは、人情であろう。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 19:36 | trackbacks(0) | comments(0) |
義経伝説は、なぜ北を目指したか(1)八戸の伝承を考える

八戸の義経伝説は修験が伝えた?


 青森県の各地に伝承されている義経北行伝説だが、八戸とその周辺には、伝承の残る場所が群を抜いて多い。そのいくつかを取り上げて、義経伝説を誰が伝えたのかについて考えてみたい。


類家稲荷と法霊さま


 『類家稲荷大明神縁起』という古文書がある。八戸藩の御側医格で学者でもある関諄甫が、享保17(1732)年に書いたものだ。義経が京より勧請したと言うこの稲荷の縁起が述べられている。階上に榊という家があって、類家稲荷の神事のおり九郎判官に榊の枝を献上したことから、この名字を名乗るようになったと言う。その子孫だと称する浄圓が語った、我が家と類家稲荷の由来を、関諄甫は書き留めたのだった。

 ここに、義経一行が気仙を出て八戸へ渡り、数年のあいだ暮らしたのち、いずくへか旅立った次第が記されている。これによれば、義経が平泉を出たのは文治年中巳の年(元年=1185)の4月。先に和泉三郎の母方の叔父にあたる板橋長治という人を遣わして、世間に知れることのない海辺間近に住処を求め、八戸の館越へ小家を探してあった。ここに一年余り暮らしたものの、地の利が不便だからと高館に移る。類家稲荷は、建久2(1191)年、京の藤が森から勧請。また、小田に毘沙門堂を建立し、大般若経六百巻を写経して奉納する。元久年中丑の年(2年=1205)、奥方の久我大臣(こがのおとど)の姫が亡くなると、船で北の方へ流れ去ったと言う。

 これは、まず年代が合わない。義経追討の宣旨が出るのは、文治元年の11月。文治元年は乙巳だが、泰衡が衣川の館を攻めた5年が己酉にあたり、伝説の作り手が巳と己を取り違えたものかと思われる。また、和泉三郎とは奥州藤原氏の忠衡(秀衡の三男)で、母は陸奥守・藤原基成の娘。仮に板橋長治という人物が実在したとしても、和泉三郎の母方の叔父にあたるとすれば、忠衡や義経が家来のように使うことが出来たとは思えない。そのうえ、糠部は奥州藤原氏を攻めるのに軍功のあった南部氏に地頭職を褒賞として与えたもので、これにより南部氏が甲州より下向する。つまり南部は頼朝の御家人で、その領地に20年にもわたって住むことができたとは考えにくい。

 ちなみに、「京の藤が森」とは京都市伏見区深草鳥居崎町(隣の京都教育大は深草藤森町、京阪やJRの駅名は「ふじのもり」)にある藤森神社で、その氏子の地域である伏見の山に「伏見稲荷」がある。伏見稲荷の一帯は藤森神社の氏子だ。伏見稲荷の氏子は伏見ではなく、東寺周辺に多い。伏見の山の辺りは藤尾と言い、もとは藤森神社もここにあった。東寺の押す伏見稲荷に社域を奪われたのである。類家に勧請した稲荷は、数多の稲荷と同じく、「伏見稲荷」(京都市伏見区深草藪之内町)だった。藤森神社の祭りは菖蒲の節句の発祥として知られ、菖蒲は尚武に通じ尚武は勝負に通じるところから、各家に飾られる武者人形には藤森の神が宿ると言われるようになった。そこで、伏見の稲荷とは書かずに、藤が森から勧請したと記したのであろう。

 類家稲荷は無住の小祠で、「法霊(おがみ)さま」おがみ神社の氏子の地域にあったことから、法霊の別当・坂本家が管理していたものらしい。それで、類家稲荷の縁起もおがみ神社の本殿にしまわれてあった(いまは八戸市史編纂室が管理している)。

 坂本家は、現在の宮司・栄治さんで30代となるが、もともとは天台宗本山派修験の総本山・聖護院門跡に属する山伏であった。熊野三山で修行したという。古文書に拠れば鎌倉時代末期の正中2(1325)年当時の別当は7代目で、その初代は五穀豊穣や雨乞いを祈祷する修験者であった。山伏神楽のひとつ法霊神楽が、おがみ神社に伝わっている。

 この縁起とともに、相当に旧い手鏡がしまわれてあり、神社では「久我大臣の姫の手鏡」と言っている。久我大臣(こがのおとど)とは源氏長者すなわち村上源氏の嫡流を継ぐ王氏(天皇から分かれた諸氏族)の長者であり、藤氏長者(五摂家など藤原氏の長者)とともに太政大臣など朝廷の重要な地位を占めてきた。久我は「清華家」、分家の中院・土御門・堀川は「大臣家」である。清和源氏の嫡流(すなわち頼朝)は、たかだか源氏の武家の棟梁にすぎず、源氏長者の久我大臣にくらべれば遥かに身分は低い。

 『類家稲荷大明神縁起』が義経の妻を「久我大臣の姫」とすることには、おそらく二つの意味がある。ひとつは、源氏長者の娘を娶ることで、源氏の棟梁・頼朝にたいする義経の権威を高めること。もうひとつは、久我氏が「平家語り」の当道(座=検校‐勾当‐座頭というヒエラルキーで構成されている)の「本所」(支配者)だったことである。つまり、義経が生き延びて北へ向かったという伝説の背景には、「平家語り」があったということだ。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 23:01 | trackbacks(0) | comments(0) |
義経伝説は、なぜ北を目指したか(2)六ヶ所の橋本家に伝わる伝説

河内商人と六ヶ所の義経伝説


 天保6(1835)年に盛岡の松羅堂山人が発行した『南部藩分限番付』の前頭23枚目に、七戸通平沼(現在の六ヶ所村平沼)の橋本久助の名前が見える。南部領内百二十七人の豪商が並ぶ長者番付のこの位置に、いまでは一寒村のように見える平沼の商人が名を連ねていることじたいが、ひとつの驚きであろう。

 橋本久助家は屋号を「上(かみ)の家」と言い、本家の橋本治郎右衛門家とともに小川原湖から海までの漁業権を共有するほか、三沢・平沼・鷹架・尾駮・泊に鰯網船を持ち、〆粕を田名部・野辺地・七戸・五戸・盛岡へ売る、網元にして魚商だった。村内へは、古着・木綿・真綿・茶・塩・醤油・酒・米などを商っている。その居宅は、相当に大きかったらしい。

 宝暦2(1752)年には、次男喜助が八戸に店を開いて分家した。屋号を「河内屋」と言う。河内屋は、天明6(1786)年に酒造りも始めた。現在の八鶴である。河内屋のある八日町と三日町の辻は、江戸時代、八戸から各方面への街道の起点となっていた。大正13(1924)年に建てられた「旧河内屋橋本合名会社社屋」は、アールデコ調のモダンな木造建築で、国の登録有形文化財になっている。大火で焼けた八戸中心街の復興のシンボルだったために、三陸はるか沖地震のあと痛みの激しかったこの建物を八戸市民が運動して保存することになった。

 この橋本久助家の本家・橋本治郎右衛門家は、屋号を「大(だい)」と言い、同じく平沼の商家である。分家の久助家と共同で小川原湖から海までの漁業権を持つほか、やはり鰯の網元として〆粕を商っていた。その祖先は河内国から来たと言い伝えられている。平沼は全戸数の八割が橋本姓で、この総本家が治郎右衛門家だ。天保の分限番付のころには「上の家」のほうが裕福になっていたが、「上の家」は「大」の最も大きな分家である。「大」の主だった分家に「大一(だいいち)」「大二(だいに)」「大三(だいさん)」があり、さらにここから「大福」「川端」「下道」などが分かれている。ちなみに、倉内から老部(おいっぺ)までの「東通商人仲間」21人のうち、平沼の商人は、橋本久助・橋本治郎右衛門・橋本佐助・橋本久右衛門・橋本彦右衛門の5人で、すべて橋本の一族である。

 この橋本家には、義経のお供をして青森まで案内したという、言い伝えがある。『六ヶ所村史』には、橋本家の養女となり祖母の膝で昔話を聞いて育った沼辺せきさんからの聴き取りが載っている(下巻供法

――この家は判官さまの御宿だった。奥方さまや姫さまも来られた。源氏の紋所の入った風呂敷も戦前までは残されていた。義経が平沼から青森に向かって出発するとき、当主与兵衛は義経主従の心に痛く感激し、お供を申し出た。義経がその切なる願いを容れお供に加えてくださったので、青森まで案内した。途中野内の貴船神社に無事渡海できるように祈願をして、善知鳥村についた。この附近一帯は広々とした原野だったので、義経は与兵衛に、この地に留まって開拓するように言った。与兵衛はその言葉通りここに留まり、荒野を開拓してその地を支配したという。そこでこの地を橋本と名付けた。義経が隠れ住んだ土蔵もあったが、いまは壊されてなくなった。――


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 01:41 | trackbacks(0) | comments(0) |
義経伝説は、なぜ北を目指したか(3)野内貴船神社と朝日御前

貴船の社の伝説に隠された謎


 天明8(1788)年、菅江真澄は、浅虫から善知鳥崎を経て野内に至る。貴船神社の宮司から義経の伝説を聞いた。「関のこなたの、みさかいと高う、社のあるにまうづれば、神ぬし、御前をきよめけるがかたりて。これは山城の貴船の神を、いにしへうつし奉る。弁財天といはひまつる末社あり、これなん鬼が女十郎姫のみたまなりとも、又義経のをんなめにてやあらん旭の前といへるが、此君をしたふのこころせちに、寄りたる船の中におもき病をして身まかり給ひしを、ここにけぶりとなし、しらほねは山おくの玉清水といふ村に埋み、塚してしるしをたて、その寺を朝日山安養寺常福院といふ。又神の社あり、神明をあがめ奉る。貴布禰の御前にかしこまりて、「おく山のたぎりて落る滝つ瀬の玉ちる斗ものなおもひそ」とずんじて、かみぬしとともにみさかおりく。その鬼が娘とはいづこの鬼にてか。云、蝦夷などのたけきをいひしにや。朝日の前も、いづらの人ともさらにつたへもさふらはず。こなたへとて径にさしいざなへるに、あやしうさし出たる岩どものあり、名を竜(たつ)の口といふ」。

野内貴船神社

 貴船神社の参道の階段の麓に、猿田彦を彫った石碑がある。不思議なことに、雨のまえになるとこの石が濡れてくる、と云う。中畑富雄さんが教えてくれた話だ。弁才天は貴船川(鷲尾川とも言う)に沿って、貴船神社の山の麓にあった。わたしが訪ねた4月19日は、年に二回、春と秋に行なう御神酒上げの日で、権現さまが野内の村を廻っていた。弁天さまから更に貴船の宮の山を廻ると、地元では「鷲尾」と呼ばれている町内がある。住所のうえでは消えてしまった地名だ。「竜の口」はその先にあった。崩れると危険だから、道路に面した部分は金網で囲われ、削られている。かつては竜が八つ頭あったと言う。その三つばかりが残っていて、山の下の民家の畑から仰ぐことが出来た。

龍の口

 「磯山かげに、けさもりといふあり。むかし、すぎやう(修行)者のけさかけたるいはれあり」(中略)「網屋場(あじゃば)といへる処に、義経の車にのりて、真くだりに磯にくだり給ひしふるあとあり。はた、よしつねのここに船つながせ給ひし巌を、はなぐり岩とて猶あり。山の名もしかり。かくて野内の関のくいぬきに入て、せきて(関手)わたして越ぬ。かみぬし柿崎なにがしがもとに休らふ。あるじの云、乃南以(のない)とはもと蝦夷の辞にして、まことは鷲の尾の港といふ。むかしここに、鷲の尾羽落したるためしもありてなど聞えき」。

 真澄はここで「うとうまいの梯」(全集第一巻41)や「竜の口」(同42)をスケッチしている(秋田県立博物館蔵)。


 野内の湊は、菅江真澄の時代、いまより遥に賑わっていた。鷲尾山当古寺には、元和7(1621)年、たまたま難破した大坂の商人金屋金四郎が積んできた阿弥陀如来像があって、青森県の重宝に指定されている。この金四郎は、この辺りの木材を伐り出して船積みし、大坂で商っていた。北前船で瀬戸内の塩が運ばれてくるまでは、大浦海岸の塩づくりも盛んだったらしい。越の国や上方で田畑の肥料に使う干鰯(ほしか)が荷積みされた。蝦夷地の漁場への出稼ぎも江戸時代から多く、津軽海峡を船が行き来していた。貴船川も、かつては五十石船が出入りしていた。明治になってからも、鰊場へ人と米・味噌・酒が渡っていった。

 貴船神社は、代々阿部森之太夫を名乗る神職がいたらしい。その家が天正年間(1573〜1591)に絶えたため、寛永7(1630)年、その親族にあたる花言坊という修験がここを治めている。その後も剣蔵院・剣言院と、享保19(1734)年まで、修験は3代続いた。そののちは柿崎氏が神職を勤めている。柿崎氏は蛎崎氏だと、地元の古老は言う。その真偽はおいても、それだけこの社が海峡の交通にかかわってきたということであろう。真澄が訪れたときの神職は花言坊から数えて6代目の常陸豊親。境内にある保食神(うけのみたまのかみ)は「寛政9年」(1797年)と刻まれているから、この人の代に建てたものだ。現在は青森市の堤川沿いにある諏訪神社の柿崎氏が兼務している。

 貴船宮別当花言坊が遺した文(ふみ)がある。貞享3(1686)年、五穀成就の神事を代官へ願い出たものだ。「妙見貴船宮は外浜中古社にて外ヶ浜安全之祈願所に御座候」とあって、これより浦町組・横内組(寛政以後は油川組・後潟組まで)の農家を対象に御借り物料が課せられている。この文書のなかで、「源義経公松前渡海之節、御心願有之ニ付御建立被成候宮に御座候」と、外ヶ浜一円を祈祷すべき由来を述べている。


 お宮は山の中腹にあり、山上は鷲尾園という公園になっている。この鷲尾山には、およそ二百種にも及ぶ植物がある。鷲尾園には、この地に残る義経の伝説を記した石碑があった。いまは割れて土に埋もれたこの石碑には、次のように刻まれていたと言う。「貴船宮往古義経公の勧請の由、妙心院の御代有四社の内になる、元修験花言坊堂立るの所、社祠替し吉田家の官職となる、一説に宮は浄瑠璃姫義経公の跡を慕い下り此処にて卒去し、右廟跡の由、鷲尾村旧跡は貴船山の影の北の隅にあり 明治2年11月8日」「この地は源義経の蝦夷に渡らんとてここに来たり、貴船神社に海上安全を祈願せんとて逗留の折り、その妻浄瑠璃姫が羅病せしかば、その臣鷲尾三郎経春をして看病せしめ、更に他方に向かえり。経春その命を守り、忠実に看病せし甲斐もなく姫は死す。身も又病を以て死せりと伝うる所なれば、ここを開拓して名を鷲尾園と称し、永く記念のしるしとなさんとす。本事業の竣成に対し特に尽粋の労を取られしは、野内分団長横内善次郎、副団長横内義悍、副団長横内藤弥、右三氏なり。幹事長貝森小次郎文筆 大正4年11月10日」。

鷲尾山

 この山頂にかつては浄瑠璃姫の墓があったとも言う。ちょうど「竜の口」の上にあたる北側の窪地らしい。「病気の浄瑠璃姫を置いていくのが偲びがたく、もうこれっきりということで桐の樹を植えたという伝説もあります。その桐の木はいまは伐られてありません」と中畑さんが話してくれた。


 ところで、伝説では義経の妻は「浄瑠璃姫」であるのに、菅江真澄の書き記す名が「旭の前」とは、どうしたことか。旭の前を葬ったという「朝日山安養寺常福院」は、貴船宮が五穀成就の祈祷を行なう横内にある。真言宗に属し、寺伝では、もとは「阿津摩嶽定額寺大日坊」と称していた。(「阿津摩嶽」は、東岳から取ったのであろう)。応永年間(1394〜1427)、外ヶ浜も南部氏の支配するところとなる。横内には堤氏の城が築かれた。寺は堤氏の菩提寺であった。天正13(1585)年、堤氏が滅ぼされると当主の妻「朝日御前」その死を悼み草庵を結ぶ。爾来、寺号を「朝日山安養寺常福院」と改めたと云う。その後、いっとき寺は梵殊山へ移ったことがある。梵殊山は修験の霊場であった。

 「旭の前」は「朝日御前」のことであろう。津軽為信に討たれた堤氏が、真澄の時代の伝説では源義経に摩り替っていた。そのまま堤氏の名を言うには憚りがあったであろう。そして兼任の乱の記憶。義経の伝説には、幾重にも物語が重なり合っていた。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 01:42 | trackbacks(0) | comments(0) |
義経伝説は、なぜ北を目指したか(4)三厩の義経寺と円空仏

義経と円空とマリア観音と


 三厩の湊近くに、厩石という岩がある。岩の海側が埋め立てられ、いまは国道が走っているが、少し前は浪打ち際にあった。浸食されて大きな穴があく奇岩だ。義経はここから馬に乗って津軽海峡を渡り北海道へ向かったという伝承があり、三厩という地名の謂れとなっている。油川から三厩へ至る松前街道はここが終点で、その先は船で渡る。津軽半島の最も北に開かれた湊・三厩は、松前へ向かう北前船が立ち寄った。

 松前街道を挟んで厩石と向き合う丘に、観音を祀る寺がある。その名も義経寺。「ぎけいじ」と読む。ここに義経の伝説を記した版木が残っている。『奥州津軽合甫外浜三厩 龍馬山観世音縁起』。もともと円空が書いたという古文書があったが、痛みが激しいので版木に彫ることにしたと云う。彫刻は「大坂 菊林堂」。世話人は「安保喜平治 大五郎 舎吉」で、この安保家は三厩の廻船問屋だった。安保家はいまは下北半島のむつ市にあり、義経寺のもっとも遠に住む檀家となっている。古文書から文字を写したのは「図書 清原延捷」。万延元(1860)年6月吉日と掘られているが、元の文書には寛政11(1799)年とあったらしい。円空が書いたと伝えられる古文書じたいは、いまは残っていない。

 その版木に語られた伝説には、こうある。「抑当龍馬山観世音の由来を欽んで稽に。昔文治の戦に源家一統して后、源延尉義経公兄之鎌倉殿より閲牆の事有りて、密に都を出て、奥州の探題秀衡に依頼し、其后又高館を逾(こ)え、此浦に来り」。

「見れば蝦夷の千嶼目前にあり、彼洲に渉り害を避んとす。時に風害く浪高くしてわたるべぎなし。於是延尉自ら古岩上に端座し、三日三夜一心に観世音に祈誓し、大悲の妙智力を仮て波涛をわたらん事を懇求せられけるに、歴脚不思議の故をもて満願の暁頃、白髪の老翁告て曰く。「汝至心に誠を投じ甚だ切なるか故に、今巌中に至る三疋の龍馬を与るなり。是に乗して渉るへしと云終て失なふ。延尉感涙も衣の袖を沽し、早天に巌頭を下り巌穴に向。その三つの駿馬、風に嘶ふ。海面も亦波を揚す。於是酬徳の為にとて、延尉常に親ら尊秘するところの正観世音を巌上に安置し、遂に主従三騎蝦夷の地へ押しわたるとなん。故に霊場を龍馬山と号し、土地を三厩と称する」

「其后遥か星霜を経て寛永の頃、越前州西川郡符中の産(れ)円空と云う僧、諸国遍歴の序、偶々此浦に来り。巌下を徘徊せしに、不思議哉、巌頭光を放てり。円空深く異之斎戒して、攀(よじ)登れば、御長一寸、白銀の正観音自在菩薩、光明赫奕たり。円空感仰の余り、終夜焚香跌座し、少し間眠けるに、直ちに霊夢を蒙り始て、其来歴を知り、往昔を追憶し、土地安全衆生利益の為として、自ら新たに大士の木造を刻し、尊像の中に納奉る。此時人家も稀なれば、土人五三人と琴力纔の草庵を結び、朝暮香火怠る事なかりし」。

 このときの住職・沙門如現、「古櫃中に開祖円空の遺伝を得て歓喜に堪へずといへども、惜(しむ)かな昏古りて、?(虫+覃)魚半を蠢(うごめか)し字句分明ならず。終に其伝を失わん事を憂て、数日考え纔に其顛末を解し謹而拝書」。


   風はやみ
   なみのまにまに行くふねを
   見そなひたまへ綿津海の神
            菅江真澄


 義経が津軽海峡を渡ったとすれば、文治5(1189)年のうちであったろう。磯に迫る断崖の上に立って、義経は北を見やったかもしれない。松前の山が見える。津軽海峡は、「しょっぱい川」だ。海だから水は塩辛いが、まるで川を渡るように、縄文の昔から人びとはここを行き来してきた。この巌の上で、義経は波の凪ぐことを祈ったであろう。

 円空もまた、津軽海峡を渡った。寛永9(1632)年美濃国(岐阜県)に生まれ、元禄8(1695)年7月15日、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂。32歳のころから各地をを遊行し、仏像を刻む。困窮に喘ぐ衆生を救わんと、生涯で12万体刻むことを発願した。鉈で削った素朴な仏像でありながら、柔らかな笑みをたたえ、円空仏と呼ばれて尊ばれている。円空が三厩を訪れたのは、この観音像の背面に書かれた銘文を信ずれば寛文7(1667)年。前年からこの年にかけ、津軽・下北と渡島を歩き、仏を刻んだ。義経寺の円空仏は、北海道福島町の吉野教会の観音に瓜二つで、円空が渡島から再び津軽へ渡った直後の作と考えられている。円空が刻んだ義経寺の観音菩薩坐像は、青森県の重宝だ。

 天明8(1788)年7月、菅江真澄がこの海を渡る。真澄もまた円空と同じく一度は北を目指し、この三厩で観音の謂れを聴くことになる。その観音に真澄は手を合わせたに違いない。義経が渡り、円空も向かった北を目指す。願いが通じたのか、空は晴れ、海は凪いでいた。艮(丑寅=東北)から吹く山背を待って、船出する。三厩は、風待ちの湊だった。

 三厩から北海道は近い。すぐ目の前にもうひとつの陸を見れば、ロマンがこの海を渡らぬわけがない。


   真北なる
   うごかぬ星をしるべにて
   ふねのゆくゑもしらぬ遠方
              真澄


 三厩から先にも、兜岩・鎧島・帯島と、義経の伝説がある。帯島は、義経が帯を締めなおしたところというのが、地名の謂れらしい。ここで義経はアイヌの酋長から巻物をもらい、この巻物に記されていることをもとに北海道に渡ったという。義経寺の住職・藤田治樹さんから聞いた話だ。藤田さんは言う、「巻物は、海流の地図だったのでしょうか。土地の人は、どの季節どの海流に乗ればどこへ行く、ということをよく知っています。そういう情報を得て、海峡を船が行き来していたのです」。


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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 00:18 | trackbacks(0) | comments(0) |
義経伝説は、なぜ北を目指したか(結)彼岸と貨幣と

 ここまでは、青森県に残る義経北行伝説のいくつかを取り上げて、そういった伝承の背景を考えてきた。これらは、青森県に伝わる伝説の一部分でしかない(そのごく一部を、この項の終わりに紹介しておいた)。わたしは、義経北行伝説の話者は誰か、ということについて考えてみた。浮かび上がってきたのは、修験などの宗教と商人である。

 八戸や野内の伝説には修験が、六ヶ所や油川の伝説には商人が、三厩の伝説には聖(ひじり)がかかわっていた。いずれの伝説も、おそらく近世に成立したものだと思われる。

 「序」に書いたように、義経北行伝説を和人によるアイヌ侵略の道具だとみなす説に、わたしは異を唱えておいた。それでは原因と結果が逆であろう。和人がアイヌの土地で富を貪った、その暴力を美しく隠蔽したのが義経についての伝説なのだ。

 中世から近世にかけて、日本の社会は大きく変容する。そのひとつは「彼岸」にたいする考え方である。人は彼岸で救われる。そういう信仰は浄土の門にかかわらず、広く民衆に広まって行った。蝦夷地は彼岸の比喩であり、死んだ義経も彼岸へ渡るべき人であった。義経はこの世では何も受け取ることはできなかったが、死したのちには彼岸の王になるのである。

 彼岸である蝦夷地は、それゆえ、富をもたらす存在である。もうひとりの話者がここに現われる。人は彼岸に富を蓄えることが出来るのだから、この世の富は諦めよ。この世の富は穢れた存在だから、得は彼岸に積め。こうして穢れを一手に担う存在として貨幣が現われる。この地球上に、植民地として支配された結果としてではなく、自律的に近代貨幣と経済が支配する社会を生み出した地域が、ふたつある。ヨーロッパと、日本だ。彼岸の思想と商人は、日本に市場経済が誕生したことを語っているのである。

 義経北行伝説は、近世日本における市場経済の誕生を語っている。話者のひとりである商人は、物語の後背にある現実では、蝦夷地の富を貪ったであろう。その暴力を<資本の本源的蓄積>と言う。その話は、いずれ詳しく書くことにして、この項を終えることにする。


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義経伝説は、なぜ北を目指したか(付録)そして蝦夷ヶ島へ

北海道の義経伝説


 義経は死なず蝦夷ヶ島へ渡ったとするならば、当然のごとく北海道にも義経の歩いた伝説が残っていなければならないことになるわけだが、津軽海峡を渡った彼の地にも伝説はあった。全部を拾うことはできないが、地域ごとにその分布を見てみよう。


1.道南
函館市:船魂神社義経腰掛の松
松前町:光善寺境内義経山の碑
江差町:鴎島義経の馬岩
乙部町:六条の森・竹森・姫待ち峠・九郎岳・姫川

2.後志
寿都町:弁慶岬・糠森・弁慶の足跡・義経の物見台
岩内町:雷電岬・メヌカ岩・悲恋の穴・弁慶の刀掛岩・薪積岩
泊村:カブト岩
積丹町:神威岩・女郎子岩(めのこいわ)

3.石狩
札幌市:義経石と埋蔵金
石狩市厚田:義経の涙岩
恵庭市:恵庭渓谷ラルマナイ滝

4.日高
壮瞥町:キムンドの滝
厚真町:義経逗留地
むかわ町:義経の魚釣り場
平取町:義経神社・義経公園・常磐御前碑・静御前碑・義経峠
新冠町:判官館森林公園
様似町:オソロコツ義経の尻もち

5.十勝
大樹町:義経の矢
豊頃町:義経上陸地
中札内村:弁慶の尻もち跡
本別町:義経山神社・義経山鎧岩・源氏山・弁慶洞

6.根釧オホーツク
白糠町:義経の尻もち跡
釧路市:義経と弁慶の弓勢競争・義経の窓岩
弟子屈町:屈斜路湖和琴半島義経岩と弁当石
羅臼町:義経しりもち岩
斜里町:義経の避難地

7.道北
旭川市:義経岩(神居岩)
東神楽町:義経台
稚内市:義経試し切りの岩


 北海道に伝わる義経の伝説は、いくつかのタイプに分類することが出来る。

a)義経上陸伝説
 まずは「義経が津軽海峡を渡って、この地に上陸した」という伝説である。
 この種の伝説は、箱館・松前・乙部・江差などに伝わっている。

b)義経の妻来訪伝説
 「義経の妻が、義経の一行の後を追ってやってきた」という伝説だ。
 乙部などに伝わっている。
 現実の義経には、幾人かの妻があったらしいが、伝説に登場するような妻が実際にいたのかどうかは、わからない。このような伝説は東北地方にもあり、八戸や野内(青森)の伝説は本稿でも紹介した。

c)義経と恋娘の伝説
 義経と恋仲になった娘が、義経の去ったあと海に身を投げて死んだ、という伝説。義経が現地の娘と恋に陥るという伝説は本州ではたとえば八戸にもあるが、北海道の特徴はその娘が義経が去ってしまったことに悲観して死んでしまうことである。
 岩内・積丹・平取などに伝わっている。

d)義経の財宝伝説
 義経の一行が財宝を埋めた、という伝説。
 恵庭・札幌などに伝わっている。
 義経は、言わば客人神(まろうどがみ)である。外から来訪する神が富をもたらすという観念は、義経の伝説に限ったことではない。

e)義経穀物神伝説
 義経が穀物の作り方を教えた、という伝説。
 平取などに伝わっている。
 これはdのタイプの伝説のバリエーションである。

f)アイヌの巻物伝説
 アイヌが義経に巻物を盗られた、という伝説。
 岩内などに伝わっている。
 『御曹司島渡り』の伝説と、物語の構造は同じだ。

g)義経の隠れ里伝説
 義経がここに隠れ住んでいた、という伝説。
 本別などに伝わっている。


 このように、北海道の義経伝説は、東北の義経北行伝説と類似した構造を持つものが多い。ただ、北海道に特異な変容を示しているものも多く、その物語構造の分析は今後の課題としたい。

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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 02:03 | trackbacks(0) | comments(0) |
義経北行伝説:シンポジウムと企画展in八戸

来る2013年3月3日、
青森県八戸市で「義経北行伝説」についてのシンポジウムを行ないます。

日時:2013年3月3日13時〜17時
場所:八戸シーガルビューホテル
主催:八戸市
入場無料

法霊神楽 伝説の伝わるおがみ神社の神楽です

1.トークセッション
 入間田宣夫 氏(歴史学)
 小松和彦 氏(民俗学)
 進行役:斎藤博之
日本にとって「東北」とは何か?
義経はなぜ「北」を目指すのか?
義経にとって「東北」とは何か?
東北にとって「義経」とは誰か?

鮫神楽 伝説の伝わる鮫地域の神楽です

2.パネルディスカッション
 河村光穂 氏(小田八幡宮宮司)
 桑原一夫 氏(寺下観音潮山神社宮司)
 坂本守正 氏(おがみ神社宮司)
 法官新一 氏(学校法人光星学院副理事長)
 コーディネーター:斎藤博之
八戸市内とその近郊で伝説が伝わる神社や家の当事者を招いて、
伝説が伝えられてきたことの意味を考えます。

******************************

これにともなって、
企画展 三陸海道に残る源義経の軌跡
を開催します。
三陸の海沿いに残る、源義経に関連した所蔵品を集めたものです。

会期:2013年3月2日(土)〜10日(日)
開館:9:00〜17:00(入館は16:30まで)
会場:八戸市美術館 3階展示室
主催:八戸市
入場無料

永く陸奥(みちのく)は化外の地、異界への通路であった。
源頼朝が現れて鎌倉に幕府を開こうとするころ、
京の都の権力も崩れ去り、
また「黄金の国」みちのくも敗れ去った。
その時代、
この異界への通路を北へ向かって駆け抜けた男があった、
という伝説がある。
源義経。滅ぼされたはずの義経が
生きて北へ向かったという伝説はなぜ生まれたのか。
その伝説が、どのように奥州へ、さらに北方へと広まったのか。
義経に託して、北方世界はどんなロマンを語ったのか…。

******************************

詳しくは、
義経北行伝説シンポジウムin八戸
のページをご覧ください。

sequel
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| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 22:49 | trackbacks(0) | comments(2) |


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