ライター斎藤博之の仕事

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義経伝説は、なぜ北を目指したか(序)

ロマンは北へ


 遥か陸奥(みちのく)は遠い。異なる人びとが住まう場所だという偏見が、「蝦夷」という言葉には表れている。言わば、みちのくは化外の地、異界への通路であった。

 だが富は、つねに異界からもたらされる。古代、みちのくはこの列島で唯一の金を産する土地であった。「すめろぎの御代栄えんと東なるみちのくの山に黄金花咲く」。天平の昔、陸奥国守百済王敬福が朝廷に献上した黄金の産地は、いまの宮城県涌谷町にある黄金山神社にあたる。化外の地と思われていた「みちのく」は、じつは豊かな土地だったのである。

 貴族支配が終わりを告げようとしていた11世紀の末から12世紀末までの百年、このみちのくに半ば独立国のごとき繁栄が訪れた。藤原清衡から基衡・秀衡・泰衡に至る4代、中尊寺の金色堂に象徴される奥州平泉の文化は、のちにマルコポーロが「黄金の国」と憧れを抱く「日本」というイメージの原型となった。白河から津軽へ至る街道を作り、十三湊から大陸や北方世界へと繋がる交易を、平泉の政権は背景に持っていた。そうして集めた富を朝廷や貴族に贈り、奥州の自立を認めさせていた。

 源頼朝が現れて鎌倉に幕府を開こうとするころ、京の都にあった権力も崩れ去り、また「黄金の国」みちのくも敗れ去った。その時代、この異界への通路を北へ向かって駆け抜けた男があった、という伝説がある。源九郎判官義経。

 滅ぼされたはずの義経が生きて北へ向かったという伝説はなぜ生まれたのか。


 そもそも、源義経という人物には謎が多い。史実としては、源氏の頭領義朝の末子で頼朝とは腹違いの弟にあたること以外に、木曾義仲を討つまでのその前半生に何ひとつ詳らかなことはない。鞍馬の山で兵法を習ったことも、武蔵坊弁慶と五条の大橋で出会ったことも、金売吉次に伴なわられて奥州平泉へ下ったことも、みな後の世に成立した『平治物語』や『源平盛衰記』『義経記』など文学の世界に属する。

 義経という武将がどのように誕生したかということが謎に包まれているように、その死もまた謎のなかにある。ただ『吾妻鏡』の文治5(1189)年閏4月晦日の条に、
――今日、陸奥の国にて、泰衡、源予州(義経)を襲う。これ、勅令の定めに任じ、頼朝の仰せに依るところなり。与州(義経)は民部少輔基成朝臣の衣河館にあり。泰衡、数百騎の兵を従え、馳せてその館に至り、合戦す。与州(義経)と家人ら、相防ぐといえども、ことごとく敗れるをもって、与州(義経)持仏堂に入り、まず妻(二十二歳)と子(四歳)を害し、次いで自らを殺す、云々――
とあるばかりだ。『義経記』に登場する弁慶が仁王立ちのまま死んだことや、自害のあと館に火をつけたことなどは、義経が死んで二百年もたった時点で編まれた物語だ。

 中世に現れた物語では、いずれも義経は泰衡に攻められ自害したことになっている。いったい義経が生きて北へ逃げ延びたという説話は、いつ誕生したのだろうか。


 父林羅山の跡を継いだ鵞峰の、寛文10年(1670年)に著した『続本朝通鑑』に、「或曰、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今」(あるいは曰く、衣川の役にて義経死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種存す)とある。これが、義経は生きていたという説の、もっとも古い記述であろう。

 次いで貞享5年(1688年)、徳川光圀の編んだ『大日本史』も「世に伝う。義経衣川の館に死せず、逃れて蝦夷に至ると。いま東鑑を考えるに、閏四月己未,藤原泰衡、義經を襲いてこれを殺す。……六月辛丑、頼朝、和田義盛と梶原景時とを使わしてその首を検める。その間へだたること四十三日、天は時に暑熱なり。たとえ函に酒を浸すといえども、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。されば、すなわち義経死を偽り、逃げ去らんや。いまに至って夷人は義経を崇め奉り、これを神として祀る」と書いた。

「世傳義經不死於衣川館、遁至蝦夷。今考東鑑、閏四月己未,藤原泰衡襲義經殺之。五月辛巳、報至、將致首于鎌倉。時源鯆慶鶴岡浮圖、故遣使止之。六月辛丑、泰衡使者齎首至腰越、漆函盛之、浸以美酒。鯆使和田義盛、梶原景時檢之。己未至辛丑、相距四十三日、天時暑熱、雖函而浸酒、焉得不壞爛腐敗、孰能辨其真偽哉。然則義經偽死而遁去乎。至今夷人崇奉義經、祀而神之、蓋或有其故也」(『大日本史』巻之一百八十七列伝一百十四)

 『大日本史』は光圀が水戸藩に彰考館を設けて編纂させたもので、その総裁である佐々宗淳(むねきよ、介三郎)や安積澹泊(たんぱく、覚兵衛)は、大坂の講釈師玉田玉知の改作した講談『水戸黄門漫遊記』の登場人物となった。ただし、光圀が供を連れて諸国を行脚した事実はない。じっさいは佐々宗淳などを各地へ遣わして、その地域の歴史や伝承などを調べさせたのであった。

 それはともかく、水戸の黄門の編んだ書物に、義経は衣川では死なず逃げたとあり、そう考えることの理由を掲げたことの影響は大きい。『大日本史』の論じた義経生存説は新井白石など名だたる学者の踏襲するところとなり、こんにちでも義経北行説を唱える者の論拠はその域を出ない。新井白石の『読史余論』も、『大日本史』とほぼ同じ論拠を揚げたあと、蝦夷地(北海道)の伝説に触れて、いくばくかこれを補強すしただけに過ぎない。「義経手を束ねて死に就くべき人にあらず、不審の事なり。今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。又夷人飲食に必ずまつる、そのいはゆるヲキクルミといふは即ち義経の事にて、義経後には奥へゆきしなどいひ傳へしともいふなり」(『読史余論』巻三「鎌倉殿分掌天下之権事」)。

 さらに、“義経は金に渡って将軍になった”とする『金史別本』や、“義経は清朝の祖となった”と書く『図書集成』などの偽書も現れて、これが『鎌倉実記』(1717年)などに引用されている。こうなると伝説が伝説を生み、挙げ句は“義経がチンギス・ハーン(ジンギスカン)になった”という珍説も生まれた。義経ジンギスカン説の始まりは、シーボルトの『日本』(1832年)かもしれない。

 大正3年(1914年)、小谷部全一郎が『成吉思汗は義経也』を出版した。小谷部は十数年のあいだアイヌの子弟教育に携わった人物で、この本は大いに評判となったらしい。これに金田一京助らが『成吉思汗は義経にあらず』を書いて反論する。その論争が、義経の生死についてのその後の議論の原型である。なお、小谷部が大正8年(1919年)から十数年にわたって陸軍の依頼でシベリアや蒙古の調査をしていることもあって、義経がチンギス・ハーンであるという説がこの時期に流行したのは、小谷部がアイヌや北方諸民族あるいは大陸への侵略支配を正当化するイデオローグとなっていたからだという見方をする人びともいるが、貴種流離譚をここまで飛躍させてしまった理由は、もっと伝説の物語構造に内在して考える必要があるだろう。

 小谷部が主張した説は、昭和33年(1958)に出版された高木彬光の小説『成吉思汗の秘密』(角川書店)で、より一般に広く知られるようになった。高木の小説はほとんど小谷部の焼き直しといってよい。最近では、高橋克彦が平成5年(1993年)に著わした『東北歴史推理行』もこれを踏襲している。いずれにせよ、小谷部とその追随者の揚げている論拠は、すでに水戸黄門からシーボルトに至る論者が繰り返し述べ、少しずつ膨らませてきたものをなぞっているに過ぎない。

 さまざまな時代にそれぞれの義経伝説が生まれた。その伝説が奥州や、さらに北方へと広まったことであろう。義経という貴種の流離譚に依拠して、蔑まれていた北方世界は自らのロマンを語ったであろう。


 義経は生きて北方へ向かったという伝説は、いまでも岩手県から青森県にかけて残っている。義経が立ち寄ったという伝承の残っている地名を挙げていこう。束稲山、江刺、遠野、釜石市室浜、山田、宮古、田老、岩泉、田野畑、普代、久慈(ここまで岩手県)、階上町榊、八戸市、名川町の法光寺、六ヶ所村平沼、野辺地町馬門、青森市野内の貴船神社、青森市松森、青森市油川、五所川原市市浦の十三、今別町袰月、今別町今別、外ヶ浜町三厩の義経寺(ここまで青森県)。ほかに気仙沼にも伝承があり、ところどころ幾筋かに分かれたりするものの、義経が北へ向かう道筋は、伝説のうえでは、陸を行くルートも、三陸の海を船で渡るルートも、基本的には真っ直ぐ津軽海峡を目指している。

 その途中途中では、宿を借りた家に「判官」という名字を許したり(気仙沼、八戸市白銀)、風呂を貰ったからと「風呂」の名字を与えたり、あるいは榊を持って参宮にお供したからと「榊」の名乗らせたり(階上町榊)しており、その名字を守る家が今も残っている。

 青森県内の伝承をみれば、八戸近郊には、さまざまな場所に伝説がある。さらに北上して六ヶ所村平沼に至る。ここには橋本与治右衛門を名乗る旧家があり、江戸時代の南部藩の商人番付に登場するほど大きな商いをしていた家だが、義経はこの橋本家に宿したと言う。さらに、橋本家の当主が野辺地の間過度を経て、青森市野内の貴船神社まで案内したことになっている。貴船神社境内に建つ比較的最近の石碑によると、文治5(1189)年に義経はこの村を訪れたと言う。ここで義経を慕って追って来た浄瑠璃姫と会った。しかし姫は長旅で病に伏したため、野内に残ることとなった。

 こういった伝説のすべてを、新しいものだと片付けてしまうわけにはいかない。たとえば、津軽海峡を渡る直前の三厩に伝わる伝説は、菅江真澄も書きとめており、少なくとも菅江真澄が三厩を訪れた二百年以上前までは、遡ることができるからである。

 延宝3(1675)年に当時の義経寺住職が古櫃のなかから見つけた古い縁起を書き写したという『竜馬山観音縁起』によれば、義経は津軽海峡を渡るとき、いまは観音堂となっている岩の上で、常日ごろ懐に持っていた観音蔵を拝み、波の静まるのを祈って待った。その観音は、この場所に残されていたという。のちに円空(?〜1695)がこの地を訪れ、観音像を彫り、その胎内に義経の観音像を納めた。庵を結んでこの円空仏を安置した。真澄も書いているこの寺の縁起である。

 三厩から北海道は近い。津軽海峡は「しょっぱい川」だと言われるほどで、本州と北海道を隔てるものではなく、逆に人びとの交流を結びつけるものだった。すぐ目の前にもうひとつの陸を見れば、ロマンがこの海を渡らぬわけがない。


 義経伝説は北海道にもある。平取には「義経神社」もあるくらいだ。安藤氏を頼って義経は海を渡ったのだという人もいる。たしかに渡島半島は、十三湊を拠点とする安藤氏の支配する領域だったことを考えれば、ありえないことではないと思わせる。

 それにしても、仮に安藤氏を頼って義経が北へ向かっていたとすれば、なぜ「奥の大道」を行かなかったのであろう。平泉の初代・清衡は白河から津軽に至るまで一町ごとに傘卒塔婆を建て、この道を整備した。平泉からこの道を鹿角・矢立・藤崎と北上すれば、十三湊まではすぐである。

 しかし、伝説についてあれこれ詮索するのは止めよう。日本人はみな「判官びいき」である。義経が検非違使左衛門小尉(判官)であったために、この種の悲劇の主人公に思いを寄せることを、「判官びいき」と呼ぶようになった。そのうえ、義経という貴種が北方の異界へ向かうことによって、さらなる力を得て復活するであろうと願うことは、ある種のロマンでありうる。「化外の地」と見下されているみちのくの民であれば、なおさらのことであろう。

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(参考資料)


『吾妻鏡』

文治5年閏4月晦日
(1189年6月15日)
己未。今日。於陸奥国。泰衡襲源予州。是且任 勅定。且依二品仰也。輿州在民部少輔基成朝臣衣河館。泰衡従兵数百騎。馳至其所合戦。与州家人等雖相防。悉以敗績。輿州入持仏堂。先害妻(廿二歳。)子(女子四歳。)次自殺云々。
――今日、陸奥の国にて、泰衡、源予州(義経)を襲う。これ、勅令の定めに任じ、頼朝の仰せに依るところなり。与州(義経)は民部少輔基成朝臣の衣河館にあり。泰衡、数百騎の兵を従え、馳せてその館に至り、合戦す。与州(義経)と家人ら、相防ぐといえども、ことごとく敗れるをもって、与州(義経)持仏堂に入り、まず妻(二十二歳)と子(四歳)を害し、次いで自らを殺す、云々――

文治5年5月12日
(1189年6月27日)
辛巳。申剋。奥州飛脚参着。申云。去月晦日。於民部少輔館誅輿州。其頸追所進也云云。則為被奏達事由。被進飛脚於京都。御消息曰。去閏四月晦日。於前民部少輔基成宿館。(奥州)誅義経畢之由。泰衡所申送候也。(中略)頼朝恐々謹言。
――申の刻、奥州より飛脚が参り着く。申して云う、「去る月の晦日、民部少輔(藤原基成)の館に与州(義経)を誅す。その頸、追って進むるなり」。すなわち事の由を達し奉らんため、京の都に飛脚を進めらる。「去る閏四月の晦日、前の民部少輔基成の宿館に義経を誅すの由、泰衡の申し送り候ところなり。頼朝恐々謹言」――

文治5年6月13日 (1189年7月28日)
辛丑。泰衡使者、新田冠者高平、持參豫州首於腰越浦、言上事由仍爲加實檢、遣和田太郎義盛、梶原平三景時等於彼所各著甲直垂、相具甲冑郎從二十騎、件首納黒漆櫃、浸美酒、高平僕從二人、荷擔之昔蘓公者、自擔其■、今高平者、令人荷彼首觀者皆拭雙涙、濕兩衫
――泰衡の使者新田の冠者高平、與州の首を腰越浦に持参し、事の由を言上す。仍って実検を加えんが為、和田の太郎義盛・梶原平三景時等を彼の所に遣わす。各々甲直垂を着し、甲冑の郎従二十騎を相具す。件の首は黒漆の櫃に納れ、清美の酒に浸す。高平僕従二人これを荷擔す。昔蘇公は、自らその獲を擔う。今高平は、人をして彼の首を荷なわしむ。観る者皆双涙を拭い両の袂を湿すと。――


国立国会図書館近代デジタルライブラリー 『大日本史』巻之一百八十四〜一百八十七


国立国会図書館近代デジタルライブラリー 『読史余論』巻三〜四


関連年表

1051(永承6)年〜1062(康平5)年
         【前九年の役】
     源頼義が清原氏の力を得て安倍氏を滅ぼす
1083(永保3)年〜1087(寛治元)年
         【後三年の役】
     源義家・義光が清原氏を滅ぼし、
     奥州藤原氏の時代
1124(天治元)年 中尊寺金色堂落成
1156(保元元)年 【保元の乱】
     後白河天皇・藤原信西・平清盛・源義朝と
     崇徳上皇・藤原頼長・平忠正・源為義・源為朝
     後白河方が崇徳方を討つ
1158(保元3)年 源義経誕生
1159(平治元)年 【平治の乱】
         藤原通憲(信西)・平清盛×藤原信頼・源義朝
         藤原信西死すも、清盛、信頼・義朝を討つ。
         平家の天下となる
1160(平治2)年 平清盛、武士として初めて参議に上る
1167(仁安2)年 平清盛、太政大臣
1170(嘉応2)年 藤原秀衡、鎮守府将軍
1174(承安4)年 源義経、藤原秀衡を頼り平泉へ。義経16歳
1180(治承4)年 源頼朝、伊豆で挙兵。義経、頼朝に合流
1181(養和元)年 藤原秀衡、陸奥守
1183(寿永2)年 木曾義仲、平氏を破り京に入る
1184(元暦元)年 義経・義範、義仲を破る
         義経、頼朝の推挙を受けず、
         検非違使尉(判官)となる
1185(元暦2)年 壇ノ浦の合戦、平家滅亡
         頼朝、義経を義絶
    10月18日、後白河法皇が源義経に源頼朝追討の宣旨
    11月26日、後白河法皇が源頼朝に源義経追討の宣旨
1187(文治3)年 義経、平泉に逃亡
    10月29日、秀衡病歿
1188(文治4)年 後白河法皇が藤原基成・泰衡に
         源義経追討の宣旨
1189(文治5)年 
   閏4月30日、頼朝の圧力に屈し、藤原泰衡、源義経を討つ
         源九郎義経、享年31
    6月13日、鎌倉で義経の首実検
    7月29日、平泉追討軍、鎌倉を出発。総勢28万
  8月8〜10日、鎌倉軍、平泉軍を破る。藤原国衡、死す
    8月22日、頼朝、平泉に入る。藤原基成、降伏
    9月3日、藤原泰衡、秋田比内で
         郎党・河田次郎に討たれる

| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 17:45 | trackbacks(0) | comments(0) |
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