ライター斎藤博之の仕事

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義経伝説は、なぜ北を目指したか(序2)大河兼任

われこそは九郎判官義経なり
〜大河兼任の乱〜


 義経が衣川の館で自害し、平泉の藤原氏が滅びた文治五年の年の瀬、死んだはずの義経が奥州で兵を上げたという知らせが鎌倉を驚かせた。『吾妻鏡』は記す。

「(十二月)廿三日 戊申 奥州の飛脚去る夜参り申して云く、與州並びに木曽左典厩の子息及び秀衡入道の男等の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に発向せんと擬すの由謳歌の説有りと」

 文治五年十二月廿三日は、新暦に直せば1190年2月6日にあたる。「與州」というのは義経のこと。壇ノ浦の戦いで平家を打ち滅ぼした元暦二年(1185年)、元号が文治に改まった八月十六日(9月18日)、義経は朝廷から伊予守に任ぜられている。前の年に賜った左衛門尉・検非違使少尉を兼ねている。長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)という四等官のうち、左衛門尉・検非違使少尉が判官にあたるところから、義経のことを「九郎判官」と言い、伊予(予州)の守であったことから、義経のことを「予州」とも呼ぶ。

 いずれにせよ、予州は閏四月の晦日(1189年6月15日)に死んだはずである。六月十三日(同年7月28日)には鎌倉で首実検までした。その義経が、元暦元年(1185年)に滅ぼされた木曾義仲の息子に、九月に討たれた藤原秀衡の息子とまで合力して、鎌倉に攻め入ってくると言うのである。三人の亡霊は頼朝にとって恐ろしいものであったに違いない。義経だけでも充分に恐ろしいのに、義仲の遺児に、奥州藤原の一族まで加わって鎌倉に攻めて来るというのである。悪霊の存在が、いまより遥かに強く信じられていた時代であった。

 いや、鎌倉の武士たちは、義経は生きていると思ったかもしれない。すぐに兵を差し向ける仕度に入る。まずは北陸に備えをする。「仍って勢を北陸道に分け遣わすべきかの由、今日その沙汰有り。深雪の期たりと雖も、皆用意を廻らすべきの旨、御書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱已下越後・信濃等の国の御家人に遣わさると。俊兼これを奉行す」。

 次いで、奥州に兵を向ける用意をする。「廿四日 己酉 工藤の小次郎行光・由利の中八維平・宮六兼仗国平等奥州に発向す。件の国また物騒の由これを告げ申すに依って、防戦の用意を致すべきが故なり」。これが報せを聴いた次の日のことだ。鎌倉が慌てふためいている様子がわかる。


 この乱の実態が明らかになるのは、年が明けて、文治6年正月六日(1190年2月18日)のことであった。「(正月)六日 辛酉 奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ」。

 「われこそは、九郎判官義経なり」と言ったかどうか。ともかくも叛乱軍は、奥州の侍には人気があったらしい。わずかのあいだに兵を集める。義経の名を騙って兵を起こしたのは、秋田五城目領主・大河兼任。安倍頼時の5代の裔だと言い、それが正しければ、同じく安倍氏の血を引く奥州藤原氏の係累にあたる。

「その路河北・秋田城等を歴て、大関山を越え、多賀の国府に出んと擬す。而るに秋田大方に於いて、志加の渡を打ち融るの間、氷俄に消えて五千余人忽ち以て溺死しをはんぬ。天の譴を蒙るか」

 初め7千騎を率いて多賀城へ向かったが、途中融けた氷を渡りそこねて5千の兵を失い、逆に北を目指す。

「爰に兼任使者を由利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親若くは夫婦怨敵の者に報ずるは尋常の事なり。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独りその例を始めんが為、鎌倉に赴く所なり。仍って維平小鹿嶋大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、防戦両時に及ぶ。維平討ち取られをはんぬ。兼任また千福山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑色澤安等を殺戮すと。これに依って在国の御家人等面々飛脚を進し、事の由を言上すと」

 秋田・津軽で鎌倉方の御家人を蹴散らし、ここで兵を蓄えて、その勢いは暫らくは止まらない。「正月十八日 癸酉」には「葛西の三郎清重去る六日の飛脚奥州より参着す。申して云く、兼任と御家人等と箭合わせすでにをはんぬ。御方軍士の中、小鹿嶋の橘次公成・宇佐美の平次實政・大見の平次家秀・石岡の三郎友景等討ち取らるる所なり。由利の中八維平は、兼任襲い到るの時、城を棄て逐電すと」いう状態であった。さらには、「二月六日 庚寅 辰の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月二十三日彼の国を出をはんぬ。その日未だ下着の軍兵無し。爰に兼任等逆賊の群集蜂の如しと」。

 一方の頼朝の軍勢はというと、わざわざ「方々の勢共の中に、塩釜以下の神領に入り、狼藉を現すべからずと」注意を与えねばならないくらいで、頗る評判は悪かった。

 兼任の軍勢は、平泉に入ったときには一万騎もの軍勢となっていた。ついに奥州藤原氏の都とも言うべき平泉を鎌倉勢から奪い返し、ここから鎌倉へと向かっている。

「二月十二日 丙申 軍士並びに在国の御家人等、兼任を征せんが為発遣す。この間奥州に群集す。各々昨日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問うの処、兼任一万騎を率い、すでに平泉を出るの由と」。


 だが、兼任の勢いもここまで。衣川の合戦に破れて、再び北へ逃げる。外ヶ浜(津軽半島の陸奥湾側)と糠部(南部地方)のあいだの「たうまい」(善知鳥崎)の山を城となし、しばらくは持ちこたえたらしい。だが、ここを破られると、姿をくらました。

「今日千葉の新介等馳せ加わり襲い到り、栗原一迫に相逢い挑戦す。賊徒分散するの間、追奔するの処、兼任猶五百余騎を率い、平泉衣河を前に当て陣を張る。栗原に差し向かい、衣河を越え合戦す。凶賊北上河を渡り逃亡しをはんぬ。返し合わすの輩に於いては悉くこれを討ち取り、次第に追跡す。而るに外浜と糠部との間に於いて、有多宇末井の梯、件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞す。上総の前司等またその所に馳せ付く。兼任一旦防戦せしむと雖も、終に以て敗北す。その身逐電し跡を晦ます。郎従等或いは梟首或いは帰降と」

 こうして、いっときは破竹の勢いだった大河兼任も、最後は一人落ち延びるところを討たれている。

「(三月)十日 甲子 大河の次郎兼任、従軍に於いては悉く誅戮せらるるの後、独り進退に迫り、華山・千福山本等を歴て、亀山を越え栗原寺に到る。爰に兼任錦の脛巾を着し、金作の太刀を帯すの間、樵夫等怪しみを成す。数十人これを相圍み、斧を以て兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正以下に告ぐ。仍ってその首を実検すと」

 文治六年三月(1190年4月)、三ヶ月ばかりで乱は終わった。これが鎌倉幕府の正史にあたる『吾妻鏡』から知り得る兼任の乱の顛末である。


 菅江真澄は、天明八年(1788年)に「うたうまへのかけはし」を訪れたことを、『率土か浜つたひ』(外ヶ浜伝い)に書いている。

「七月七日、うたうまへのかけはしを渡る。国人は、とうまへのかけはしともはらいへり。高岸の岩つらに、尋(ひろ)斗の板をわたしてあやうげ也。ふりあふげば木の中に婀岐都が窟とて、むかし、あら蝦夷人のこもりて、行かふふねをうちとどめて宝をうばひたりしと、げにやさかしき処に、人さらに至らぬいはやど也」。

 真澄は四年前にも、この「うたうまえのかけはし」を観ようとした。しかし、青森から向かう途上で、逃散する人びとに出会う。天明の大飢饉で、他国へ逃れようとしていたのだ。これはまずいと思ったのであろう。「うたうまえのかけはし」に行くのは諦め、蝦夷ヶ島へ渡るのも諦め、平泉などを巡って時が来るのを待った。

 奥州街道の浅虫から久栗坂へ至る途中に、善知鳥崎がある。奥州街道の難所であったらしい。波の高い日は、ここを通ることは叶わなかった。そこで、この区間の奥州街道には、もうひとつ山越えの道があったほどである。明治9(1876)年、天皇の巡幸のおり、崖を削って崎を回りこみ、容易に通れるようになった。現在の国道からそれて海側にある遊歩道がそれで、近世以前の街道は海に迫り出した岩の上にあった。

 義経を騙って乱を起こした秋田五城目領主・大河兼任が最後の砦とした「有多宇末井の梯」は、この善知鳥崎であるという説があり、おそらく真澄もそう考えていただろう。兼任が籠もったと推定される山のさらに上に、蝦夷館跡がある。

 いずれにせよ、真澄は「善知鳥崎の梯」を渡って、蝦夷ヶ島へ向かった。それは、伝説の上で、義経が北へ向かう道であった。そのことを真澄が意識していたかどうかはわからない。わかっているのは、義経の死後に義経の名を騙って兵をを挙げた勢力があり、その兵たちが平泉より北、すなわち糠部・秋田・津軽に根を下ろしていたということである。少なくとも、彼らは鎌倉には従わないという自立の志を持っていた。その志を江戸には向かわない旅人も共有していたと、想像してみたくなる。そういう種類の想像力が、義経が北へ向かったという伝説の背景にあったであろう。

sequel
善知鳥崎

「於外濱與糠部間、有多宇、末井之梯、以件山、爲城郭兼任引篭」(『吾妻鏡』)
兼任が立て籠もった「有多宇末井」(うたうまい)は、浅虫と久栗坂のあいだにある善知鳥崎だったとも考えられている。天文年間(1532〜1555)に書かれた『津軽郡中名字』には、浅虫が「麻蒸湯」、久栗坂は「根井」という地名で登場する。『吾妻鏡』に「件の山を以って城郭をなし、兼任引き籠もる」とあるので、兼任が籠もったとすればこの岬の上の山であろう。さらにこの上には、蝦夷館があった。

近世以前の街道の岩場

「有多宇末井之梯」が、この二つの岩のあいだに掛けてあったと推定される。現在の国道は善知鳥崎の山にトンネルを空けて通しているが、岬を廻る磯伝いの道が本来の街道である。とは言っても、いまも通れる遊歩道は明治9年(1876年)に天皇が巡幸するのに合わせて造ったもので、それ以前は岩場の上の道なき道であった。波が被れば通ることもかなわず、奥州街道の難所であった。そのため、浅虫と久栗坂のあいだの街道には山越えの道もあった。ちなみに、近世の「奥州街道」は江戸幕府の管理する街道としては白河の関までだが、これより北も青森あるいは油川または三厩まで、奥州街道と呼び習わしている。もちろん、奥州街道は近世の街道だが、その大本はそれ以前にかたちづくられていたと考えられる。「有多宇末井之梯」を通る道も、「奥の大道」の脇街道であっただろうと思われる。


大河兼任関連年表


文治3(1187)年 義経、平泉に逃亡
    10月29日、秀衡病歿
文治4(1188)年 後白河法皇が藤原基成・泰衡に
         源義経追討の宣旨
文治5(1189)年
     閏4月30日、頼朝の圧力に屈し、
         藤原泰衡、源義経を討つ
         源九郎義経、享年31
    6月13日、鎌倉で義経の首実検
    7月29日、平泉追討軍、鎌倉を出発
         総勢28万
    8月8〜10日、鎌倉軍、平泉軍を破る
         藤原国衡、死す
    8月22日、頼朝、平泉に入る
         藤原基成、降伏
    9月3日、藤原泰衡、秋田比内で
         郎党・河田次郎に討たれる
    (1190)年
    12月  、秋田五城目領主・大河兼任が
         伊予守義経を騙り乱を起こす
         兼任、津軽を征す
文治6年
    1月、  兼任、平泉に入る
    2月、  兼任、衣川で敗れる
         兼任、外ヶ浜と糠部の間
         「うたうまい」(善知鳥崎)の
         山に籠もるも敗れる
    3月、  兼任、宮城の栗原寺で死す


『吾妻鏡』


(文治五年十二月)廿三日△戊申△奥州飛脚、去夜參申云、有豫州并
木曽左典厩子息及秀衡入道男等者各令同心合
力、擬發向鎌倉之由、有謳歌説〈云云〉仍可分遣勢於北
陸道歟之趣、今日有其沙汰雖爲深雪之期、皆可廻
用意之旨、被遣御書於小諸太郎光兼、佐々木三郎
盛綱已下、越後信濃等國御家人〈云云〉俊兼、奉行之

文治五年十二月廿三日(1190年2月6日)
 奥州の飛脚去る夜参り申して云く、與州並びに木曽左典厩の子息及び秀衡入道の男等の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に発向せんと擬すの由謳歌の説有りと。仍って勢を北陸道に分け遣わすべきかの由、今日その沙汰有り。深雪の期たりと雖も、皆用意を廻らすべきの旨、御書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱已下越後・信濃等の国の御家人に遣わさると。俊兼これを奉行す。


(十二月)廿四日△己酉△工藤小次郎行光、由利中八維平、
宮六■仗國平等發向奥州件國又物忽之由、依告
申之可致防戰用意之故也

十二月廿四日(2月7日)
 工藤の小次郎行光・由利の中八維平・宮六兼仗国平等奥州に発向す。件の国また物騒の由これを告げ申すに依って、防戦の用意を致すべきが故なり。


(文治六年正月)六日△辛酉△奥州、故泰衡郎從、大河次郎兼任、以
下去年窮冬以來企叛逆、或號伊豫守義經、出於出
羽國海邊庄、或稱左馬頭義仲嫡男朝日冠者、起于
同國山北郡、各結逆黨遂兼任、相具嫡子鶴太郎、次
男於幾内次郎、并七千餘騎凶徒、向鎌倉方令首途
其路、歴河北、秋田城等、越大關山、擬出于多賀國府、
而於秋田、大方打融志加渡之間、氷俄消、而五千餘
人、忽以溺死訖蒙天譴歟爰兼任、送使者於由利中
八維平之許云、古今間、報六親若夫婦怨敵之者尋
常事也未有討主人敵之例、兼任獨爲始其例、所赴
鎌倉也者仍維平馳向于小鹿嶋大社、山毛之左田
之邊防戰及兩時、維平被討取畢兼任、亦向千福、山
本之方、到于津輕、重合戰、殺戮宇佐美平次以下御
家人、及雜色澤安等〈云云〉依之、在國御家人等面々進
飛脚、言上事由〈云云〉

文治六年正月六日(1190年2月18日)
 奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ。その路河北・秋田城等を歴て、大関山を越え、多賀の国府に出んと擬す。而るに秋田大方に於いて、志加の渡を打ち融るの間、氷俄に消えて五千余人忽ち以て溺死しをはんぬ。天の譴を蒙るか。爰に兼任使者を由利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親若くは夫婦怨敵の者に報ずるは尋常の事なり。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独りその例を始めんが為、鎌倉に赴く所なりてえり。仍って維平小鹿嶋大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、防戦両時に及ぶ。維平討ち取られをはんぬ。兼任また千福山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑色澤安等を殺戮すと。これに依って在国の御家人等面々飛脚を進し、事の由を言上すと。


(正月)七日△壬戌△去年奥州囚人、二藤次忠季者大河
次郎兼任弟也頗不背物儀之間、已爲御家人、仍有
被仰付事下向奥州於途中聞兼任叛逆事今日所
歸參也是雖爲兄弟、全不同意之由爲顯貞心、〈云云〉殊
有御感、早馳向于奥州、可追討兼任之旨、被仰含〈云云〉
忠季兄、新田三郎入道、同背兼任參上〈云云〉彼等參上
之今、始依聞食驚之可被發遣軍勢之由、及其沙汰、
盛時、行政等書召文被下于相摸國以西御家人、存
征伐之用意、可參上之趣也

正月七日(2月19日)
 去年の奥州の囚人二籐次忠季は、大河の次郎兼任の弟なり。頗る物儀に背かざるの間、すでに御家人と為す。仍って仰せ付けらるる事有り、奥州に下向す。途中に於いて兼任叛逆の事を聞き、今日帰参する所なり。これ兄弟たりと雖も、全く同意せざるの由貞心を顕わさんが為と。殊に御感有り。早く奥州に馳せ向かい、兼任を追討すべきの旨仰せ含めらると。忠季兄新田の三郎入道、同じく兼任に背き参上すと。彼等参上の今、始めてこれを聞こし食し驚くに依って、軍勢を発遣せらるべきの由その沙汰に及ぶ。盛時・行政等召文を書く。相模の国以西の御家人に下さるべし。征伐の用意を存じ参上すべきの趣なり。


(正月)八日△癸亥△依奥州叛逆事被分遣軍兵、海道大
將軍、千葉介常胤、山道比企藤四郎能員也而東海
道岩崎輩雖不相待常胤、可進先登之由申請之間、
神妙之旨被仰下仍彼輩者、雖爲奥州住人、不存貳
歟各無隔心、相具之、可遂合戰之趣今日付飛脚被
仰遣奥州守護御家人等許〈云云〉此外、近國御家人、結
城七郎朝光以下、於在奥州所領之輩不存可同道
于一族等之旨、面々怱可下向由、被仰遣〈云云〉

正月八日(2月20日)
 奥州叛逆の事に依って軍兵を分ち遣わさる。海道の大将軍は千葉の介常胤、山道は比企の籐四郎能員なり。


(正月)十八日△癸酉△御坐伊豆山、而御奉幣以前葛西
三郎清重、去六日飛脚、自奥州參著、申云兼任與御
家人等箭合已訖、御方軍士之中小鹿嶋橘次公成、
宇佐美平次實政、大見平次家秀石岡三郎友景等
所被討取也由利中八維平者兼任、襲至之期弃城
逐電〈云云〉飛脚差進二人之處、一人依病、留途中〈云云〉二
品仰曰、使者申詞、相違哉中八者、定令討死歟、橘次
者、逐電歟兩人共兼日、知食其意趣之上、暗可察事
也〈云云〉則被返遣彼使者、先被發遣軍士訖、無殊事歟
各不可有驚動思之旨、被仰下〈云云〉大見平次、注進此
間事其状没後到來〈云云〉

正月十八日(3月2日)
 伊豆山に御坐す。而るに御奉幣以前、葛西の三郎清重去る六日の飛脚奥州より参着す。申して云く、兼任と御家人等と箭合わせすでにをはんぬ。御方軍士の中、小鹿嶋の橘次公成・宇佐美の平次實政・大見の平次家秀・石岡の三郎友景等討ち取らるる所なり。由利の中八維平は、兼任襲い到るの時、城を棄て逐電すと。飛脚二人を差し進すの処、一人病に依って途中に留まると。二品仰せて曰く、使者の申す詞相違有らんや。中八は定めて討ち死にせしむか。橘次は逐電せんか。両人共兼日その意趣を知ろし食すの上、暗に察すべき事なりと。則ち彼の使者を返し遣わさる。先ず軍士を発遣せられんか。殊なる事無きか。各々驚動の思い有るべからざるの旨仰せ下さると。大見の平次この間の事を注進す。その状没後到来すと。


(二月)五日△己丑△被遣雜色、真近、常清、利定等於奥州
是於三方依可遂合戰、爲其檢見也恐凶徒之蜂起、
不拘御家人等之武勇者、爲令發向給、可申其左右
之趣、所被仰遣千葉新介胤正以下、御家人等之中
也又合戰大體、至歩兵等者路山驛尋之、有其便然
者、求宗敵在所、可襲之凡於今度落人等者、至郎等、
皆可召進之、落人相論、并就下人等事、傍輩互不可
有喧嘩

二月五日(3月19日)
 雑色眞近・常清・利定等を奥州に遣わさる。これ三方に於いて合戦を遂ぐべきに依って、その検見の為なり。また凶徒の蜂起、御家人等の武勇に拘わらずんば、発向せしめ給わんが為、その左右を申すべきの趣、千葉の新介胤正以下御家人等の中に仰せ遣わさるる所なり。また合戦の大躰、歩兵等に到りては、山沢を踏みこれを尋ねその便有り。然れば宗たる敵の在所を求めこれを襲うべし。凡そ今度の落人等に於いては、郎等に到るまで皆これを召し進すべし。落人相論並びに下人等の事に就いて、傍輩互いに喧嘩有るべからず。


(二月)六日△庚寅△辰尅、奥州飛脚、參著申云、去月廿三
日出彼國訖其日未無下著之軍兵爰兼任等、逆賊
群集如蜂〈云云〉則相副雜色里長於件使者、被下遣此
間可廻計儀之子細、具所仰遣也先謀叛輩事、悉難
遁于死罪流刑歟以可任御意事也然者國中之輩、
一旦怖兼任之猛威、雖令與彼逆心、真實之志者、定
在御方歟至奉歸降之族者、可緩刑由、兼可披露于
國中偏以可追討之趣、於有披露者、面々發退心、強
遂合戰者爲御方可有其煩〈云云〉次新留守所、本留守、
共有兼任同意之罪科、無左右、雖可被誅、暫被預葛
西三郎清重、可召甲二百領之過料〈云云〉本留守者、年
齢已七旬、雖不被處斬罪、取終之條、無程事歟〈云云〉次
方々勢共中、入塩竃以下神領、不可現狼藉〈云云〉

二月六日(3月20日)
 辰の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月二十三日彼の国を出をはんぬ。その日未だ下着の軍兵無し。爰に兼任等逆賊の群集蜂の如しと。則ち雑色里長を件の使者に相副え下し遣わさる。この間計儀を廻らすべきの子細、具に仰せ遣わす所なり。先ず謀叛の輩の事、悉く死罪に遁れ難きか。而るに降人として参るの時は、死罪・流刑共に以て御意に任すべき事なり。然れば国中の輩、一旦兼任の猛威に怖れ、彼の逆心に與せしむと雖も、真実の志は定めて御方に在らんか。帰降し奉るの族に至りては、緩刑すべきの由、兼ねて国中に披露すべし。偏に以て追討すべきの趣披露有るに於いては、面々退心を発し、強いて合戦を遂げば、御方の為にその煩い有るべしと。次いで新留守所・本留守、共に兼任同意の罪科有り。左右無く誅せらるべきと雖も、暫く葛西の三郎清重に預けられ、甲二百領の過料を召すべしと。本留守は、年齢すでに七旬、斬罪に処せられずと雖も、終わりを取るの條程無き事かと。次いで方々の勢共の中に、塩釜以下の神領に入り、狼藉を現すべからずと。


(二月)十二日△丙申△發遣軍士并在國御家人等、爲征
兼任、此間群集于奥州、各昨日馳過平泉、於泉田、尋
問凶徒在所之處、兼任、率一萬騎、已出平泉之由〈云云〉
仍打立泉田、行向之輩足利上総前司、小山五郎、同
七郎、葛西三郎關四郎、小野寺太郎、中條義勝法橋、
同子息藤次以下、如雲霞縡及昏黒、不能越一迫止
宿于途中民居等此間、兼任早過訖仍今日千葉新
介等、馳加襲到、相逢于栗原一迫挑戰賊徒分散之
間、追奔之處兼任猶率五百餘騎、當平泉、衣河於前、
張陣差向栗原、越衣河合戰凶賊渡北上河、逃亡訖
於返合之輩者、悉討取之次第追跡、而於外濱與糠
部間、有多宇、末井之梯、以件山、爲城郭兼任引篭之
由、風聞上総前司等又馳付其所、兼任、一旦雖令防
戰終以敗北、其身逐電晦跡郎從等或梟首、或歸降 〈云云〉

二月十二日(3月26日)
 軍士並びに在国の御家人等、兼任を征せんが為発遣す。この間奥州に群集す。各々昨日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問うの処、兼任一万騎を率い、すでに平泉を出るの由と。仍って泉田を打ち立ち行き向かうの輩、足利上総の前司・小山の五郎・同七郎・葛西の三郎・同四郎・小野寺の太郎・中條の義勝法橋・同子息籐次以下雲霞の如し。縡昏黒に及び、一迫を越えるに能わず。途中の民居等に止宿す。この間兼任早く過ぎをはんぬ。仍って今日千葉の新介等馳せ加わり襲い到り、栗原一迫に相逢い挑戦す。賊徒分散するの間、追奔するの処、兼任猶五百余騎を率い、平泉衣河を前に当て陣を張る。栗原に差し向かい、衣河を越え合戦す。凶賊北上河を渡り逃亡しをはんぬ。返し合わすの輩に於いては悉くこれを討ち取り、次第に追跡す。而るに外浜と糠部との間に於いて、有多宇末井の梯、件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞す。上総の前司等またその所に馳せ付く。兼任一旦防戦せしむと雖も、終に以て敗北す。その身逐電し跡を晦ます。郎従等或いは梟首或いは帰降と。


(三月)十日△甲子△大河次郎兼任、於從軍者、悉被誅戮
之後、獨迫進退、歴華山、千福、山本等越龜山、出于栗
原寺爰兼任、著錦脛巾帶金作太刀之間、樵夫等成
恠、數十人相圍之、以斧討殺兼任之後、告事由於胤
正以下仍實検其首〈云云〉

三月十日(4月22日)
 大河の次郎兼任、従軍に於いては悉く誅戮せらるるの後、独り進退に迫り、華山・千福山本等を歴て、亀山を越え栗原寺に到る。爰に兼任錦の脛巾を着し、金作の太刀を帯すの間、樵夫等怪しみを成す。数十人これを相圍み、斧を以て兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正以下に告ぐ。仍ってその首を実検すと。

| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 20:00 | trackbacks(0) | comments(0) |
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