ライター斎藤博之の仕事

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義経伝説は、なぜ北を目指したか(1)八戸の伝承を考える

八戸の義経伝説は修験が伝えた?


 青森県の各地に伝承されている義経北行伝説だが、八戸とその周辺には、伝承の残る場所が群を抜いて多い。そのいくつかを取り上げて、義経伝説を誰が伝えたのかについて考えてみたい。


類家稲荷と法霊さま


 『類家稲荷大明神縁起』という古文書がある。八戸藩の御側医格で学者でもある関諄甫が、享保17(1732)年に書いたものだ。義経が京より勧請したと言うこの稲荷の縁起が述べられている。階上に榊という家があって、類家稲荷の神事のおり九郎判官に榊の枝を献上したことから、この名字を名乗るようになったと言う。その子孫だと称する浄圓が語った、我が家と類家稲荷の由来を、関諄甫は書き留めたのだった。

 ここに、義経一行が気仙を出て八戸へ渡り、数年のあいだ暮らしたのち、いずくへか旅立った次第が記されている。これによれば、義経が平泉を出たのは文治年中巳の年(元年=1185)の4月。先に和泉三郎の母方の叔父にあたる板橋長治という人を遣わして、世間に知れることのない海辺間近に住処を求め、八戸の館越へ小家を探してあった。ここに一年余り暮らしたものの、地の利が不便だからと高館に移る。類家稲荷は、建久2(1191)年、京の藤が森から勧請。また、小田に毘沙門堂を建立し、大般若経六百巻を写経して奉納する。元久年中丑の年(2年=1205)、奥方の久我大臣(こがのおとど)の姫が亡くなると、船で北の方へ流れ去ったと言う。

 これは、まず年代が合わない。義経追討の宣旨が出るのは、文治元年の11月。文治元年は乙巳だが、泰衡が衣川の館を攻めた5年が己酉にあたり、伝説の作り手が巳と己を取り違えたものかと思われる。また、和泉三郎とは奥州藤原氏の忠衡(秀衡の三男)で、母は陸奥守・藤原基成の娘。仮に板橋長治という人物が実在したとしても、和泉三郎の母方の叔父にあたるとすれば、忠衡や義経が家来のように使うことが出来たとは思えない。そのうえ、糠部は奥州藤原氏を攻めるのに軍功のあった南部氏に地頭職を褒賞として与えたもので、これにより南部氏が甲州より下向する。つまり南部は頼朝の御家人で、その領地に20年にもわたって住むことができたとは考えにくい。

 ちなみに、「京の藤が森」とは京都市伏見区深草鳥居崎町(隣の京都教育大は深草藤森町、京阪やJRの駅名は「ふじのもり」)にある藤森神社で、その氏子の地域である伏見の山に「伏見稲荷」がある。伏見稲荷の一帯は藤森神社の氏子だ。伏見稲荷の氏子は伏見ではなく、東寺周辺に多い。伏見の山の辺りは藤尾と言い、もとは藤森神社もここにあった。東寺の押す伏見稲荷に社域を奪われたのである。類家に勧請した稲荷は、数多の稲荷と同じく、「伏見稲荷」(京都市伏見区深草藪之内町)だった。藤森神社の祭りは菖蒲の節句の発祥として知られ、菖蒲は尚武に通じ尚武は勝負に通じるところから、各家に飾られる武者人形には藤森の神が宿ると言われるようになった。そこで、伏見の稲荷とは書かずに、藤が森から勧請したと記したのであろう。

 類家稲荷は無住の小祠で、「法霊(おがみ)さま」おがみ神社の氏子の地域にあったことから、法霊の別当・坂本家が管理していたものらしい。それで、類家稲荷の縁起もおがみ神社の本殿にしまわれてあった(いまは八戸市史編纂室が管理している)。

 坂本家は、現在の宮司・栄治さんで30代となるが、もともとは天台宗本山派修験の総本山・聖護院門跡に属する山伏であった。熊野三山で修行したという。古文書に拠れば鎌倉時代末期の正中2(1325)年当時の別当は7代目で、その初代は五穀豊穣や雨乞いを祈祷する修験者であった。山伏神楽のひとつ法霊神楽が、おがみ神社に伝わっている。

 この縁起とともに、相当に旧い手鏡がしまわれてあり、神社では「久我大臣の姫の手鏡」と言っている。久我大臣(こがのおとど)とは源氏長者すなわち村上源氏の嫡流を継ぐ王氏(天皇から分かれた諸氏族)の長者であり、藤氏長者(五摂家など藤原氏の長者)とともに太政大臣など朝廷の重要な地位を占めてきた。久我は「清華家」、分家の中院・土御門・堀川は「大臣家」である。清和源氏の嫡流(すなわち頼朝)は、たかだか源氏の武家の棟梁にすぎず、源氏長者の久我大臣にくらべれば遥かに身分は低い。

 『類家稲荷大明神縁起』が義経の妻を「久我大臣の姫」とすることには、おそらく二つの意味がある。ひとつは、源氏長者の娘を娶ることで、源氏の棟梁・頼朝にたいする義経の権威を高めること。もうひとつは、久我氏が「平家語り」の当道(座=検校‐勾当‐座頭というヒエラルキーで構成されている)の「本所」(支配者)だったことである。つまり、義経が生き延びて北へ向かったという伝説の背景には、「平家語り」があったということだ。


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毘沙門堂(小田八幡宮)


 小田八幡宮は神仏分離の以前には真言密教の寺で、「小田毘沙門堂」と呼ばれていた。仁王が置かれていた山門が、いまでも明治4年以前の姿を語っている。毘沙門天は、いまは宮司の河村家が個人で祀り、かたちの上では神社と切り離されている。神社の氏子となる範囲は、小田・高館・八太郎・石堂などで、えんぶりや鶏舞などの民俗芸能も盛んな地域だ。

 毘沙門とは言うが、その忿怒の形相は多聞天。眼には水晶が埋め込まれ、背が観音開きになっている。安政2(1855)年、37代目の別当・正焉の書き記した『福田山徳城寺毘沙門天王之縁起』。この文書に拠れば、前九年の役で源頼義が安倍氏を滅ぼしたおり、石山寺の宗円座主は朝敵降伏の祈祷を命ぜられた。宗円、手ずから毘沙門天を彫る。戦ののち、頼義は兜の内なる守り本尊・黄金仏を、この毘沙門天に納めたと言う。のちに、日光の別当となった宗円の、孫を開基に山科福田村に徳城寺を開き、この毘沙門天を安置した。ところが、平治の乱で敗れた源為義に組したため、毘沙門の別当は父為義と対峙した子の義朝に追われるところとなる。奥州平泉の秀衡を頼り、秀衡の配下にあった櫛引氏のもとに落ち延びる。その地が小田だったと伝えられている。

 近世の終わりに書かれたこの文書の語るところとは別の伝説が、『類家稲荷大明神縁起』にある。義経は鞍馬の毘沙門を敬い、これを模した小さな尊像を持ち歩いていた。八戸の高館に館を置いたとき、この山の下に社を建て、その尊像を祀った。ここに義経の一行が写経した『大般若経』が伝わっていると言う。この伝説は、広く知られていたものらしい。この毘沙門天に奉納された義経と弁慶の像が残っている。その背面に、
  奉納毘沙門天御宝前
  江戸麻布坂下町
   大仏師 小林兆載佳運
  安政五戌年五月三日
   棋侍栄治郎
   石橋徳右衛門寿怖
とある。棋侍家は八戸藩士、石橋家は城下の商人であった。

 小田の山の高館には、11世紀の館があった。義経の時代よりは古く、頼義の時代にあたる。いずれにせよ、この場所に何らかの政治権力があり、これを背景に寺院も出来たであろう。『大般若経』六百巻は、いまも小田八幡宮に残されている。いつの時代に書かれたものかは別としても、ただでさえ貴重な紙に柿渋を施したものが六百巻も用意できたということじたい、この宗教施設が中央と結びついた交通と高い文化水準とをもっていたことを示している。

 拝殿に「毘沙門堂」だった時代の山門に使われていた釘が、額に入れて飾られていた。門を補修したとき出てきたものを、宮司が大切に並べたのである。棟札によれば、この門を建てたのは弘化2(1845)年、鉄釘は田名部から来たと言う。八戸の市街からは外れた場所にあるが、かつては域外からも文物の集まる重要な地位を占めていたことがわかる。


寺下観音と大般若経


 小田の毘沙門像を修復し、この秘仏を長者山で開帳した僧・津要玄梁(しんようげんりょう)は、正徳2(1712)年、寺下観音に詣で、燈明堂や五重塔を建立した。寺下の日陽山に庵を結ぶ。小田毘沙門堂に義経の一行が納めたと伝わる『大般若経』六百巻があるように、寺下観音にも弁慶が書写したと伝えられる『大般若経』が五七六巻遺されている。お腹の痛むときなどは、この経文の一字を切り取って護符とし、煎じて飲めば効く、と言われてきた。だから前段が所々欠けている。

 津要玄梁が建立した燈明堂は言わば我が国最古の灯台で、燈明堂に登る参道には「弁慶の一刀石」「牛若弁慶相撲取り石」という岩がある。「弁慶の一刀石」は「新山権現石」とも言い、八戸市新井田岩淵にある「岩淵新山権現」と関係が深い。その岩淵新山権現堂も津要玄梁が再興したもので、この辺りにも弁慶の手になると言う『大般若経』がある。「牛若弁慶相撲取り石」には、津要玄梁が手によると伝えられる剣と龍と亀が刻まれている。

 寺下観音は「海潮山応物寺観音堂」と言い、寛保3(1743)年に八戸の天聖寺則誉守西上人が設定した「奥州南部三十三所順礼」の一番札所である。もともと神仏混淆で、潮山神社の社殿は寛永3(1626)年に再建されたものだ。寺下観音は旧くから修験の行場だった。

 潮神社の宮司・桑原一夫さんと親戚にあたるという鹿角三五郎さんのお宅には、『鬼一法眼虎の巻』が遺されている。義経が鬼一法眼から盗み取ったとされる兵法の書2巻を、明和5(1768)年と8(1771)年に写したものだ。「卍大日不動明王」など陰陽道の作法が書かれている。鹿角家は屋号を「山川」と言い、寺下観音別当の桑原家と幾代にも渉って縁戚関係を結んでいる。集落一の草分けの家だ。


法官家の巻物


 白銀に義経に所縁(ゆかり)があると言い伝わる「法官」家を訪ねた。「あくまで、我が家の伝承ですが」と前置きして、法官新一さんは言った。「その方々は海から来ました。その当時、法導院という尼寺があって、そこに身を寄せたと言います。寺の下には清水川の湧き水があって、水汲みに来る若い娘と恋に落ちました。なかなかこの土地を立ち去れなくなった。娘の住む辺りに身を寄せるようになります。やがて娘に子が生まれましたが、追っ手が迫り、妻子を残して逃げることになります。その子孫に判官を名乗るように言い残して、北へ落ち延びました。最後までその素性は明かしませんでしたが、この土地ではそれが義経の一行ではなかったかと伝えられてきました。一行は山伏の姿で、刀を帯び、陣幕を使っていました。義経を世話した家が法官家、弁慶らを世話した家が浜浦半七家です。清水川の湧き出る崖の上の法導院があった辺りの一角を、源氏囲内と言います。法官の本家には1960年ごろまでは祠があって、一行が残していったという巻物が納められていました」。

 巻物は白銀の大火で失われ、いまはない。白銀権現の神楽が門付けに廻るときなどは、この巻物を三宝に揚げて拝んだという。また家の新築で権現さまが屋固めをするときも、この巻物を持って祓い清めたらしい。親族が正月に集まって、巻物を拝むという行事もあった。この巻物は、一説には粟を借りたことを記す証文だとも言うが、新一さんの記憶では梵字が書いてあり、むしろ信仰にかんするものではないかと言う。

 「法官」の姓は、「判官」を名乗るのはあまりにも憚られるので文字を改めたと伝えられているが、新一さんは「法眼」と関係があるのではないかと思っている。ちなみに広辞苑には「ほう‐げん【法眼】(1)〔仏〕五眼の一。諸法を観察する智慧の眼。これによって菩薩は諸法の真相を知り衆生を済度する。(2)法眼和尚位の略。法印に次ぐ僧位。(3)中世・近世、医師・画工・連歌師などに授けた位」とある。  法官家は、昭和初期までは、代々白銀浜の網元だった。しかし、明治以前はお寺だったという話も伝わっている。


客人神・法師の屋敷


 八戸の類家には「帽子屋敷」という字が最近まであった。『類家稲荷大明神縁起』は、その地名の由来を、義経が稲荷に詣でるとき烏帽子や狩衣を掛けたところだからと説明し、「ぼっち屋敷」と呼んでいると記す。「ぼっち」とは法師のこと。関東などに、水源を拓き田畑に用いる鉄の農具を教えたのは、旅から来た大男や鬼だとする伝承があり、その大男や鬼を「だいだらぼっち」(大平法師)と呼ぶ。「ぼっち屋敷」も、まれなる力をもった旅人の屋敷ということだろう。それが『類家稲荷大明神縁起』の知られる以前から義経に関係していたものかどうかは解からないが、仮にそうであれば義経は「ぼっち」の代名詞である。

 いずれにしても、八戸に伝わる義経伝説は、なんらかのかたちで密教や修験が関係していた。そういった信仰を広めるのに、あの義経も法師の仲間だということにしておけば、非常に受け入れられやすくなる。そこで、義経は生きて北へ向かったという伝説を山伏たちが伝え歩いたものと思われる。


| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 23:01 | trackbacks(0) | comments(0) |
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