ライター斎藤博之の仕事

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義経伝説は、なぜ北を目指したか(3)野内貴船神社と朝日御前

貴船の社の伝説に隠された謎


 天明8(1788)年、菅江真澄は、浅虫から善知鳥崎を経て野内に至る。貴船神社の宮司から義経の伝説を聞いた。「関のこなたの、みさかいと高う、社のあるにまうづれば、神ぬし、御前をきよめけるがかたりて。これは山城の貴船の神を、いにしへうつし奉る。弁財天といはひまつる末社あり、これなん鬼が女十郎姫のみたまなりとも、又義経のをんなめにてやあらん旭の前といへるが、此君をしたふのこころせちに、寄りたる船の中におもき病をして身まかり給ひしを、ここにけぶりとなし、しらほねは山おくの玉清水といふ村に埋み、塚してしるしをたて、その寺を朝日山安養寺常福院といふ。又神の社あり、神明をあがめ奉る。貴布禰の御前にかしこまりて、「おく山のたぎりて落る滝つ瀬の玉ちる斗ものなおもひそ」とずんじて、かみぬしとともにみさかおりく。その鬼が娘とはいづこの鬼にてか。云、蝦夷などのたけきをいひしにや。朝日の前も、いづらの人ともさらにつたへもさふらはず。こなたへとて径にさしいざなへるに、あやしうさし出たる岩どものあり、名を竜(たつ)の口といふ」。

野内貴船神社

 貴船神社の参道の階段の麓に、猿田彦を彫った石碑がある。不思議なことに、雨のまえになるとこの石が濡れてくる、と云う。中畑富雄さんが教えてくれた話だ。弁才天は貴船川(鷲尾川とも言う)に沿って、貴船神社の山の麓にあった。わたしが訪ねた4月19日は、年に二回、春と秋に行なう御神酒上げの日で、権現さまが野内の村を廻っていた。弁天さまから更に貴船の宮の山を廻ると、地元では「鷲尾」と呼ばれている町内がある。住所のうえでは消えてしまった地名だ。「竜の口」はその先にあった。崩れると危険だから、道路に面した部分は金網で囲われ、削られている。かつては竜が八つ頭あったと言う。その三つばかりが残っていて、山の下の民家の畑から仰ぐことが出来た。

龍の口

 「磯山かげに、けさもりといふあり。むかし、すぎやう(修行)者のけさかけたるいはれあり」(中略)「網屋場(あじゃば)といへる処に、義経の車にのりて、真くだりに磯にくだり給ひしふるあとあり。はた、よしつねのここに船つながせ給ひし巌を、はなぐり岩とて猶あり。山の名もしかり。かくて野内の関のくいぬきに入て、せきて(関手)わたして越ぬ。かみぬし柿崎なにがしがもとに休らふ。あるじの云、乃南以(のない)とはもと蝦夷の辞にして、まことは鷲の尾の港といふ。むかしここに、鷲の尾羽落したるためしもありてなど聞えき」。

 真澄はここで「うとうまいの梯」(全集第一巻41)や「竜の口」(同42)をスケッチしている(秋田県立博物館蔵)。


 野内の湊は、菅江真澄の時代、いまより遥に賑わっていた。鷲尾山当古寺には、元和7(1621)年、たまたま難破した大坂の商人金屋金四郎が積んできた阿弥陀如来像があって、青森県の重宝に指定されている。この金四郎は、この辺りの木材を伐り出して船積みし、大坂で商っていた。北前船で瀬戸内の塩が運ばれてくるまでは、大浦海岸の塩づくりも盛んだったらしい。越の国や上方で田畑の肥料に使う干鰯(ほしか)が荷積みされた。蝦夷地の漁場への出稼ぎも江戸時代から多く、津軽海峡を船が行き来していた。貴船川も、かつては五十石船が出入りしていた。明治になってからも、鰊場へ人と米・味噌・酒が渡っていった。

 貴船神社は、代々阿部森之太夫を名乗る神職がいたらしい。その家が天正年間(1573〜1591)に絶えたため、寛永7(1630)年、その親族にあたる花言坊という修験がここを治めている。その後も剣蔵院・剣言院と、享保19(1734)年まで、修験は3代続いた。そののちは柿崎氏が神職を勤めている。柿崎氏は蛎崎氏だと、地元の古老は言う。その真偽はおいても、それだけこの社が海峡の交通にかかわってきたということであろう。真澄が訪れたときの神職は花言坊から数えて6代目の常陸豊親。境内にある保食神(うけのみたまのかみ)は「寛政9年」(1797年)と刻まれているから、この人の代に建てたものだ。現在は青森市の堤川沿いにある諏訪神社の柿崎氏が兼務している。

 貴船宮別当花言坊が遺した文(ふみ)がある。貞享3(1686)年、五穀成就の神事を代官へ願い出たものだ。「妙見貴船宮は外浜中古社にて外ヶ浜安全之祈願所に御座候」とあって、これより浦町組・横内組(寛政以後は油川組・後潟組まで)の農家を対象に御借り物料が課せられている。この文書のなかで、「源義経公松前渡海之節、御心願有之ニ付御建立被成候宮に御座候」と、外ヶ浜一円を祈祷すべき由来を述べている。


 お宮は山の中腹にあり、山上は鷲尾園という公園になっている。この鷲尾山には、およそ二百種にも及ぶ植物がある。鷲尾園には、この地に残る義経の伝説を記した石碑があった。いまは割れて土に埋もれたこの石碑には、次のように刻まれていたと言う。「貴船宮往古義経公の勧請の由、妙心院の御代有四社の内になる、元修験花言坊堂立るの所、社祠替し吉田家の官職となる、一説に宮は浄瑠璃姫義経公の跡を慕い下り此処にて卒去し、右廟跡の由、鷲尾村旧跡は貴船山の影の北の隅にあり 明治2年11月8日」「この地は源義経の蝦夷に渡らんとてここに来たり、貴船神社に海上安全を祈願せんとて逗留の折り、その妻浄瑠璃姫が羅病せしかば、その臣鷲尾三郎経春をして看病せしめ、更に他方に向かえり。経春その命を守り、忠実に看病せし甲斐もなく姫は死す。身も又病を以て死せりと伝うる所なれば、ここを開拓して名を鷲尾園と称し、永く記念のしるしとなさんとす。本事業の竣成に対し特に尽粋の労を取られしは、野内分団長横内善次郎、副団長横内義悍、副団長横内藤弥、右三氏なり。幹事長貝森小次郎文筆 大正4年11月10日」。

鷲尾山

 この山頂にかつては浄瑠璃姫の墓があったとも言う。ちょうど「竜の口」の上にあたる北側の窪地らしい。「病気の浄瑠璃姫を置いていくのが偲びがたく、もうこれっきりということで桐の樹を植えたという伝説もあります。その桐の木はいまは伐られてありません」と中畑さんが話してくれた。


 ところで、伝説では義経の妻は「浄瑠璃姫」であるのに、菅江真澄の書き記す名が「旭の前」とは、どうしたことか。旭の前を葬ったという「朝日山安養寺常福院」は、貴船宮が五穀成就の祈祷を行なう横内にある。真言宗に属し、寺伝では、もとは「阿津摩嶽定額寺大日坊」と称していた。(「阿津摩嶽」は、東岳から取ったのであろう)。応永年間(1394〜1427)、外ヶ浜も南部氏の支配するところとなる。横内には堤氏の城が築かれた。寺は堤氏の菩提寺であった。天正13(1585)年、堤氏が滅ぼされると当主の妻「朝日御前」その死を悼み草庵を結ぶ。爾来、寺号を「朝日山安養寺常福院」と改めたと云う。その後、いっとき寺は梵殊山へ移ったことがある。梵殊山は修験の霊場であった。

 「旭の前」は「朝日御前」のことであろう。津軽為信に討たれた堤氏が、真澄の時代の伝説では源義経に摩り替っていた。そのまま堤氏の名を言うには憚りがあったであろう。そして兼任の乱の記憶。義経の伝説には、幾重にも物語が重なり合っていた。


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堤ヶ浦の館の対岸に松尾神社


 義経の一行が、野内の貴船神社を発った後、立ち寄ったのが松尾神社だ、と伝えられている。伝説では、義経は神前に供えるものをなにひとつ持っていなかったので、身に着けていた脛巾(はばき)を脱いで供えた。それで、この神社を脛巾神社とも呼ぶ、と。

 この言い伝えを、菅江真澄も、聴き取っている。真澄は寛政八年(1796年)に、この社を訪れた。

「八月朔日のあした 霍公鳥きかばやと塘川を橋より渡りて、茶屋町をめてに松森のやかたにいと近う、偽柑辧淵汽ぅシ)のとしふる大木の、ふせるがごとき杜のうちに祠あり。むかし源九郎義経のはぎまきをかけて、神とは斎ひ奉れりといふ。こは松前の西なる磯辺に小山権現とて、小山判官のかたはゞきを、かく、神といはひまつるのたぐひにひとし。この松杜のほとりなるみやどころに、今は松尾の神をうつし奉れど、なべて麁脛縢明神と申といふ。あらはゞきの神は血麁の浦の神籬の摂社、あるは、吾ふる郷の刀鹿の峰大汝の命の神社の側にも、あらはゞきの神の祠あり、おなじ神にや」(『すみかの山』)

 この神社のある辺りが堤川の右岸。その対岸に、堤ヶ浦の館があった。この松尾神社に義経伝説があるのは、朝日御前を娶った堤氏の居城に近いことと、関係があるかもしれない。


堤ヶ浦の館


堤ヶ浦の館の川湊跡

 三戸南部氏は、一族の田子弾正左衛門尉光康を、津軽郡代として堤に置いた。明応7(1498)年に、光康が「堤ヶ浦」に築いた館が、古舘と大舘で、堤川に面し、相当な大きさだった。おそらくこの館より下流にあった「包宿」を支配していたのが、光康だったと思われる。

 この光康の一族がやがて横内に城を構え、荒川の流れを変えて駒込川に合流させ、巨大な沼であった安潟の水を断って、平野を拓いたという伝承がある。この伝承の真偽はともかく、光康の一族が、現在の青森の基盤を作ったことは間違いがない。

 なお三戸南部氏は、光康を津軽郡代としてから35年のちの天文2年(1533)に、石川城に置いた石川高信(田子信直の父)を津軽郡代としている。


横内城址(常福院)


常福院山門

 真言宗の寺・常福院が、中世の横内城である。寺の境内には、堀の跡が見られるほか、三代目の城主夫妻を弔う石塔がある。

常福院境内裏(堀跡)
常福院庭園(堀跡)

 そもそも、この常福院は、田子弾正左衛門尉光康の子・堤孫六則景の妻である朝日御前が、天正23年(1554年)に九戸の乱で夫が死んだため、これを悲しんで結んだ庵から始まったと云う。

 この朝日御前は、津軽家の系図では、大浦右京亮(津軽為信)の叔母にあたる。南部の系図でも、堤孫六の姉が大浦為則に嫁ぎ、大浦政信の娘が堤孫六に嫁ぎ、大浦為則の娘が堤孫六の息子に嫁ぎという具合で、横内城主と大浦城主は幾度も縁組を重ね、密接な関係にあった。

 大浦右京亮は、津軽家の系図では堤孫六の姉と大浦為則とのあいだに生まれた戌姫の婿であるが、津軽の記録では天正13年(1585年)、南部の記録によれば天正18年(1590年)、堤孫六の息子である横内城の最後の主(南部系図に書かれた名前は堤弾正左衛門)を攻め滅ぼした。

朝日御前墓

 弘前藩は、大浦氏の一族である朝日御前を弔うため、この寺の名前を朝日御前の戒名「常福院殿安養妙貞大禅定尼」に因んだものに変え、弘前の真言五山の隠居寺とした。

 朝日御前の墓は明治28年(1895年)に建てられたものだが、その後「堤ヶ浦の館」があったと思われる付近から一基の五輪塔がみつかり、これを堤孫六則景の墓とみなして朝日御前の墓の裏側に遷した。

 真言宗智山派朝日山安養寺常福院 017-738-2439

| 斎藤 博之 | [地域の社会史]義経北行伝説 | 01:42 | trackbacks(0) | comments(0) |
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