ライター斎藤博之の仕事

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義経北行伝説シンポジウムin八戸(その3)

2013年3月3日に青森県八戸市が主催して行なわれた「義経北行伝説シンポジウムin八戸」のうち、「第1部 トークセッション」の内容を紹介する3回目の記事です。お話いただいたのは、入間田宣夫氏(歴史学)と小松和彦氏(民俗学)で、進行役は斎藤博之が務めさせていただきました。

* ここに掲載するのは、あくまで進行役の斎藤がまとめたものなので、お話しいただいたものをそのまま掲載しているわけではありません。内容に対する責任は斎藤が負うものであることをご承知の上、お読みください。なお、敬称は省略させていただきます。

伝説の話者は「聖」

[斎藤]
 義経が陰陽師の秘密の巻物を盗み取って強くなるという話が、蝦夷が島へ行って、要するにもっと外の世界へ行って強くなるという話に作り替えられていく。そこで、作り替えて物語を語ろうとしたその話者というべきか作者がいると思うんですけれども、誰がこんな物語を作り替えたんでしょう。
[小松]
 これはいくつか、いろいろな人が想定されておりますけれども、おそらく今の都での鬼一法眼、そういうような話は、おそらく町で門付をして回ったりしながら生活を得ている、そういう都の芸能者というんでしょうか、宗教者でもあると同時に芸能者のような人たちが、作っていったと思うんですけれども、物語をスケールアップしていく過程で、都だけではなくて、都の近辺から、さらにいろいろな地域を回って歩く、廻国する宗教者たちが、当然想定されるかと思います。一番の候補者は、修験道の聖(ひじり)、遊行する修験者ですね。鞍馬というのは、今でも修験道の道場なんですね。鞍馬の天狗が持っていた兵法書を義経が手に入れたというような話も同時に語られております。鞍馬天狗ですね。天狗は修験道と深く結び付いた存在です。天狗の姿形は山伏の姿、修験者の姿形です。
 東北地方の義経の物語の一つ一つは、このような小さなエピソードを語りながら話が修正されていったんだろう。その小さな物語の膨大な集積が義経伝説になる。私は東北地方の聖、修験の山々を回って修行する修験者たちが、その地域で人びとに義経の物語を語ることで、自分の話を聴いてもらえた、そうしていろいろな話が語られ伝えられていったのではないだろうかと、私は思っているんですけれども。

語り伝えた側の気持ち

[斎藤]
 中世の時代に、義経が強くなったのは北の異界との接触が大きな関わりを持っていたとする物語が生まれる。その物語の精神構造は、これを土台に生まれた新たな伝説、義経は衣川で死なず北へ逃げ延びていったと信ずる、あるいは逃げ延びていってほしいと願う精神とのあいだに、何か共通するものがあると考えていいのでしょうか。
[入間田]
 鬼一法眼の娘、名前が皆鶴姫というんですね。実は、その話というのは、東北地方にそのローカルバージョンがあるんですね。例えば会津若松、あの有名な磐梯山の麓にお寺がありまして、会津では大寺といって一番大きなお寺で、そこに会津の人はお参りするんですけれども、その上り口の藤倉というところに二階堂というお堂があって、そこに面白い話があるんです。
 都から兄の追求を逃れてきた義経が、藤倉を通って大寺まで行った。磐梯山までお参りに行くんですね。後から都から皆鶴姫が追いかけてくる。必死に追いかけるんだけれども、なかなか追いつかない。磐梯山の慧日寺に義経はとうに着いちゃった。皆鶴姫はようやく麓の藤倉まで来たんだけれども、そこでもう疲れ果てて諦め、池にドボンと身を投げ自殺してしまうんですね。それで、この皆鶴姫を祭ったお堂というのが今でも藤倉にあるんですね。
 それは、会津の人にとってみるとすごくわかるので、つまりみんながしょっちゅうお参りして信仰している会津磐梯山のお寺、義経がそこまで行った。でも、追いかけてきた恋人の皆鶴姫はそこまで行けなくて、一歩手前の山の入り口のところであえなく果ててしまった。というので、地元の人はなるほどなという、皆鶴姫もやっぱり大寺までお参りさせて義経と会わせてやりたかったのになという思いも持ちながら、でもそのことによって、会津の人たちは大寺と、それから入り口にある藤倉の皆鶴姫の身投げした池まであるんですけれども、そういう関係性を理解して、人びとの会津磐梯山の慧日寺に対する信仰がますます強まると。
 あるいは、宮城県の三陸海岸でいきますと、気仙沼に同じく皆鶴姫の話がありまして、それはやっぱり義経の後を追いかけてくるんですけれども、追いかけ方がすごくて、会津の場合はてくてく歩いてくるんですけれども、船に乗ってくるんですね、都から。それが「うつぼ舟」といって、どんぶらこと自分で漕ぐ船ではなくて、かいも何もなくて、ただの丸い円盤みたいなものが浮いている、それが潮に乗って都の方から気仙沼の浜辺へ流れ着いたという話があって、つまりそれは浜の人びとからいうと、外からの情報、都の方面の話とかそういうものは常に船に乗って浜にたどり着く。だから、当然そういうよそからの珍しいお姫様なんかも船に乗ってやって来る。というようなことがありますから、その浜の人にとってみると一番自然なんですね、うつぼ船に乗って流れ着いたという話が。浜の方の民俗は、小松先生のご専門だけれども、常にやっぱりそういうふうに、潮の流れに乗って見知らぬところからいろいろなものがやってくる。そういうのにちゃんと義経の話が乗っかっているんです。
 ですから、北の方に行った義経の話もあるんですけれども、むしろそれぞれの地域のお寺とか、そういったところの地元の人のそういう気持ちにフィットする格好での伝説の残り方もあるのでね。だから、語り伝えた方の側の気持ちもあるんだけれども、それを受けとめる側の気持ちからいうと、やっぱり地元の地形なり、そういうものに沿って、やっぱりそれが受け止められていくという、そういうこともありますね。

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なぜ<異界>は北でなければならなかったか

[斎藤]
 義経が生まれ清まる場所、富や力をもたらす<異界>は、なぜ北でなければならなかったのでしょうか?
[小松]
 富をもたらすものとして描かれる<異界>は、日本列島の場合は、だいたい北方なんですね。日本列島から見て西には大陸があるので、だいたい<文化>の<中心>につながる権威あるものは西からやってきた。未知のものではない、ということがあります。西の方の彼方に富があると言えば、大体仏教の浄土、はるか向こうの世界、西方浄土になってしまうんですけれども、地理的な部分では、何か富がある場所として描かれることがなかったんだろうと思うんですね。そこのところがちょっと違う、平家の山の中に生き延びているんだ、誰それ平家の落人は実は生き延びて、四国の山の中で、ここでずっと子孫がこの地域の豪族になったんだというような伝説があったとしても、何かそういうものとは、富とはあまり結び付いていないところが大変興味深いなというふうに思います。

平泉は初めての日本的な街づくり

[斎藤]
 もう一度、東北にとっての義経北行伝説の意味について考えてみたいと思うんですけれども、まずその東北には、入間田先生がご指摘されたように、義経の時代の平泉に一つの独立した権力があったとして、それが結果としては鎌倉の権力に破れていくわけですけれども、その時代の東北に生まれた権力が、その後の歴史にどういう意味を持ってきたんでしょうか。
[入間田]
 難しい問題なんですけれども、やはり中世の始まりのころに、鎌倉とは別の国を奥州につくる、あるいは同じような動きが九州にも、あるいは四国にもあったんですけれども、そういうふうに地域が、1カ所だけある日本の中心とは違って、地域がやっぱり自分たちで独立をするという、そういう実験だったと思うんですね。それが、結果的にはその動きがうまくいかなくて、鎌倉幕府という一極集中になってしまうんですけれども、でもやっぱりそのときの記憶が地下水脈みたいに残っていて、それが人びとの、地域に生きる人たちの一つの気持ちの支えに、あるいは今回の3.11以降の、地域の側からする自分たちでの復興ということのバックにもなるような、そういったことがあったと思うんですね。ですから、日本人というのはどちらかといえばずっと中央の権威に弱いとか、常に長いものに巻かれるというように言われている面があるんですけれども、でももう一方で、やっぱり自分たちの地域というものを大事にして、そこから自分たちなりの形を作っていくという、そういうこともあったと思うんですよね。そういうことで言うと、やっぱり平泉というのは一つの大きな壮大な実験だったんだろうというふうに思っています。その意味は、決して小さくはないと思います。
[斎藤]
 入間田先生は、日本の中世が平泉から始まったんだとおっしゃっていますよね。これはどういう意味なのか教えていただけますか。
[入間田]
 今言ったこととも関わるんですけれども、かつては京都一極集中で、つまりお公家さんが、あるいは天皇が日本中を取り仕切っているわけですけれども、そういうのに対して、地方の側から自分たちの政権を形作るという動きが、秀衡の平泉からも、頼朝の鎌倉からも、あるいは義仲の木曽・信州からも、あるいは平家の福原、四国、九州いろいろなところから始まるんですけれども、そういう動きが一番最初にはっきりとした格好で出てきたのが、有名な前九年合戦、後三年合戦の安倍氏あるいは清原氏、そしてこれを受け継いで平泉の藤原氏という流れが、日本の中世の武家政権の一番早い形になる。
 だから、平泉でやったいろいろなことは、後で頼朝がまねをしていくわけですけれども、平泉が鎌倉幕府の原型に当たる、鎌倉は平泉の弟のようなものだということが最近は言われるようになりました。昔は、私ども学生の頃は平泉の藤原氏は京の藤原氏の田舎の真似と考えられ、それで平泉の町そのものも小京都なんて言っていて、勝手にそういうイメージを持ってきたんですけれども、実際にここ20年ぐらい平泉の発掘をしてみますと、京の都を真似たところは全然なくて、町のつくりはむしろ鎌倉のもとになるような、そういった都市の形です。京都はやっぱり中国の長安の都の町づくりを真似している、いわばあれは中国モデルなんですけれども、平泉の場合には、そういう南北の大路なんかを基本とするのではなくて、むしろ仏教を基本に据え東西を中心にした。幕府のあった鎌倉や、のちの時代の仙台や江戸など城下町モデルの最初の形が平泉ということがわかって来ました。奈良や京の都というのは、まだ半分中国の借り物の文化だった。そこが、本当の意味で日本的な町づくり、あるいは国づくりがスタートしたのは、おそらく平泉からだと私は言っていて、学会ではまだ半分ぐらい危ないかなという人もいるんですけれども、だいぶ支持者が増えてきて、私が目の黒いうちには多分学会もほとんどそうなるだろうというふうに期待しているんですけれども。

<中心>と<周縁>

[小松]
 全く学問的な感想ではないんですけれども、私はどちらかというと、全共闘世代というか真っただ中なんですけれども、鬼が好きで鬼の側から日本文化を見たりということをやってきました。東北の藤原三代なんかを見る自分のイメージとしてはですね、何か完全な独立国で、ただ都と先ほど言った交易なんかで協定を結んでいて、それぞれお互いにお互いの富を分かち合うみたいな、そんなイメージで見ていたんですね。東北が何かもう一つの国家として成り立っていたのではないかぐらいのイメージを持っていたので、今の話を聞くと、歴史学会もだんだんにそういう方向になってきている。東北はやっぱりそれだけの力を持っていたのではないだろうかなという感じはするんですけれどもね。
[入間田]
 独立国に近いというのはその通りだと思うんですね。ただ、それが都と同じなのか、むしろ新しい鎌倉的なものなのか、ということが問題になります。平泉は、京都とは違う、新しいタイプの独立国だったんだというふうに思っていまして。
[斎藤]
 一般的には、東北という場所が、どちらかと言えば中央から見て後れた場所、未開の場所というイメージが、近代には特にそういうイメージが強いと思うんですけれども、入間田先生のお話を伺っていると、実際に歴史学的に最近わかってきたところでは、東北という場所が未開の地でもなく、後れているわけでもなく、特に中世から見ると新しいものがそこから生まれてきた場所でもあり、豊かさ、富もそこにあった。一つの独立した、国とまではいかなくても権力があった。東北というものに対するイメージというものが、歴史学の上からはだいぶ変わってきているんだなというふうに思いますが。
[入間田]
 東北に限らず、世界の歴史がそうなので、ヨーロッパなんていうのはローマの辺境だった。そこの中で、やがてイタリアでは世界の中心のイタリアではなくて、覇権国家がやがてスペインとかポルトガルになり、それからやがてはそこからはるかに後れて、支配されていたオランダが世界の中心になり、さらにもっと野蛮な国だったイギリスが世界の中心になり、そしてイギリスが世界帝国をつくるわけだけれども、今度はアメリカに覇権が移りという具合で、常に時代の新しい形というのは、実は辺境のところから新しいものが生まれてくるという歴史があって、やっぱり中心部というのは、長い間中心でいると、文化は発展し、生活も豊かになるんだけれども、逆にいろいろなしがらみが生まれて、新しいことをやりづらいんです。
 ですから、平泉で金色堂をつくったなんていうことも、お経の方にはちゃんと、極楽にある建物は全部金色で光り輝いていると書いているんですけれども、京都でそれをやろうと思ったら、やっぱりみんなから変な目で見られてできないんですよね。でも、平泉だったらば、誰に遠慮することなく、お経に書いている純粋の理想的な例えばお経、京都でも貴族は実は死にそうになると、阿弥陀堂をつくって阿弥陀様におすがりしながらお迎えを待つんですけれども、それを光堂と言うんです。阿弥陀様というのは無限の光を放つ無量光仏とも言います。でも、名前は光堂だけれども、京都の貴族がつくった阿弥陀堂というのは光っていないんですね。やっぱりそんなことをすると、いろいろと世間の目が、天皇もいるし、いろいろなことがあってできないんですね。ところが、平泉だったらば誰に遠慮することなくできる。ですから、京都でも郊外の、宇治の平等院から5キロぐらい山の中に入った誰も知らないような場所には、実は金色院という金メッキの建物があったんですけれどもね。だから、辺境というのは、ある面では新しいことを思い切ってできる、そういう場所ではあるんですね。だから、そういうことで言えば、平泉も決して世界史の上の例外ではなくて、むしろ古代国家が滅亡して、中世の新しい時代が始まるときにはいつでもそうなんですけれども、辺境、大きく言えば中国の古代帝国が滅亡すると、その周辺の国々で、シルクロードの北の方もそうですし、南の方のカンボジアとかあっちの方もそうなんですけれども、一斉に新しいタイプの国ができるんですけれども、それはやっぱり中国の辺境ということがある。ですから、決して平泉だけの例外ではない。
[斎藤]
 今、辺境から新しい歴史が生まれるというお話を入間田先生からいただきましたが、小松先生のキーワードに置き換えると、異界から歴史が生まれるということになるのかと思いますが。
[小松]
 異界から果たして生まれるかどうかは難しいところなんですけれども、ただ中心部というのは、実は中心部を突き詰めていくと異界につながるんですね。ですから、例えば都の貴族たちでも、一番頂点にあるのは天皇になるわけですけれども、天皇というのは天の入り口なんですね。ですから、天皇の上を行こうとすると天に行ってしまうという意味では異界につながっているんですけれども、同時に都から遠くへ、空間的にどんどん遠くへ行くと、そこもやっぱり異界につながる、鬼の世界だったり西方浄土みたいな地獄だったり極楽だったりするので、どこに中心を置くかで辺境は変わるんだと思うんですね。例えば、平泉のそこに住んでいる人たちから見れば、きっと自分たちが辺境だとは思っていないんですね。自分たちは中心にいて、しかし西の方にもう一つの国家があって、これはやっかいな国家だとか、あるいは海の向こうに、先ほどの蝦夷が島というような言葉で出てくる今の北海道のようなものがあって、そこはまた違う人びとがいると。ですから、そういうふうな目で見れば、辺境は変わるんだと思うんですね。どこに焦点を置いて物語を作っていくかで、その中心と辺境というのはおそらく変わってくるんだと思うんです。それが錯綜しながら日本の列島の文化はつくられていたんだろうなというふうに思います。例えば、平泉から見て辺境はどこだったというと、ひょっとしたら津軽のあのあたり、外ヶ浜とかああいうような地域は、例えば都から見た辺境でもあると同時に、関東やあるいは平泉とかそういったところから見ても、津軽のあのあたりは地の果てみたいな、そういうような異界だろうと思うんですね。だから、何かそういうような洞窟がずっと行くと外ヶ浜に抜けるとかいうような、そういう考え方というのが、どこが中心でどこが周辺だというふうなことを表現しているのではないでしょうか。

思いを重ねられる義経になっていく

[斎藤]
 何が中心で何か周辺かが、見方を変えると変わってくるということがすごく面白いかと思うんです。義経伝説も、どこから見るかということによって見方が変わってくるのかというふうには思うんですけれども、もう一度その義経北行伝説の話に立ち返ってみたいと思うんですけれども、義経がどうして北に向かうのかという意味が、多分その伝説の中にもあるんだろうと思うんですが。
[小松]
 『義経記』は義経の物語であると同時に、ある意味では、義経の従者たちの物語でもある、そういう本なんですけれども、ほとんど義経の武勇は語られないで、義経の生い立ちだとかそういうようなのが中心なんですけれども、そういう話以降の義経というのはどんどん弱くなっていくんですね。女たらしになっていくと。何かもうたくさん女を連れて逃げて、それで奥さんをだまくらかして着物を取ったり、浄瑠璃姫に助けてもらったとか、よみがえらせてもらったとか、ですから義経は、ある意味では伝説の中で弱くなっていくということの意味みたいなものを考えてみる必要があると思うんです。弱くなっていくことによって、ある意味で私たちが心を寄せられる存在になっていく、何かそういう関係はあるんだろうと思います。義経は英雄だと、すばらしい英雄で武芸も優れていたというんだけれども、私たちが聞く義経の話というのは何かなよなよして、さっきあんなに鬼の島に行ったのに、全く刀は抜かないで、貴族みたいな、何かそんなところにおそらく秘密があるんだろうというふうに思います。これは、敗者といったら語弊があるかもしれませんけれども、その支配の光の届かない、あるいは支配で苦しめられているような地域の人びとの思いみたいなものが、どこか投影している、投影せざるを得ないというんでしょうか、あまり強い義経であったら、やっぱりそれは語るに値しなくなるような、何かそういう部分が義経にあるのではないでしょうか。

地域のランドマークが伝説の場所

[斎藤]
 入間田先生は、先ほど義経の伝説がいろいろな港、港にあって、その土地のシンボル、一つのアイデンティティーを作っているのではないかということをおっしゃっていましたが、実際にこの三陸の義経北行伝説をたどっていくと、そこに例えば黒森神社があったりだとか、法霊権現があったりだとか、地域の民間信仰の中心になっている神社があったりお寺があったりすることが多くて、要するにその地域の人びとの心の拠り所になっている場所に、義経北行伝説が伝わっている。
[入間田]
 ですから、さっきは会津の話、気仙沼の話をしたんですが、地元ですから、『類家稲荷大明神縁起』という、八戸界隈の義経伝説の話のもとになっている有名な話がありますね。あれを読んでみますと、類家稲荷というお稲荷様があって、それは類家の土手の下にごみ捨て場のような場所と一緒にあって、粗末な扱いだったんですね。それを見かねて、もったいないからというので、土手の上の方に上げる。そして、もともとそこの神社に関わっていた榊というその代々の関係者のおじいちゃんに話を聞くと、いろいろと八戸界隈で今言われているような物語が出てくるんですけれども、それが本当か嘘かという話は置いておいて、一番私が気になったのは、そのおじいちゃんが何と言ったかというと、このように土手の下ではなくて、上の方にちゃんと遷してもらって、本当に涙が出るぐらいうれしい。今はこんなふうにお参りする人もあまりい小さいお社なんだけれども、そもそももともとの神社は、普通の大名なんかのお祀りした、そういう神社とはレベルが違う。何といっても、それよりもずっとレベルが高い天下に大功ある御人、つまり義経様が勧請した、最初にお祀りした神様なんだから、こういう扱いではもったいない。これからはもっともっとみんながその神社を大事にお祀りしていただきますようにというのが話の終わりにある。その気持ちだと思うんですね。つまり、地域に建っているお稲荷様、そこを何としてももっと立派に、みんなが心から崇敬できるように、そのためにはやっぱり義経というスーパースターが勧請してお祀りしたということが一番人びとの気持ちに訴える、そういうことがあったと思うんです。だから、そういう今目の前にある神社を大事に思う、そういう真心みたいなものがベースにあって、その上で義経がどうこうしたという話になっているので、だから義経が実際来たかどうかというのは、いろいろな意見もあって難しい問題があるんですけれども、それを語っている人の気持ちの一番奥のところに、何としても目の前にある神社を大事にお守りしていきたいという、そういう純真な気持ちがある、そこのところは一番大事なんだと思うんですね。
 ですから、さっきの会津若松の場合でも、やっぱり人びとが磐梯山神社という神社を共通の神社と崇めてきて、そこに大寺というお寺もあって、その登り口のところに藤倉というところにお寺がある。それに対して人びとが本当にずっとこれからも大事に、磐梯山とともに孫子の代にまでそこを伝えるようにというそのときに、その義経あるいは皆鶴姫がそこでという話になると、なおさらその話を聞いた人はそう思うわけでしょう。あの気仙沼の港の場合にもそうなんですけれども、やっぱりある日、うつぼ船という船に乗って漂流してきて、姫がそこで死んで、お墓もあるわけですけれども、そのことによっていつでも、あるいは今後も海の向こうから、いろいろな情報を持った新しいものが生まれてきて、そういうものを受け止めて地域がこれからますます発展するようにという、そういう純真な気持ちがあると思うんですね。ですから、実際に来たのかどうかということよりも、そういう地域の人びとの、目の前にある神社とかお寺とか、だいたい義経伝説があるところというのは、やっぱり地域の人びとが自分たちの誇りに思っている。それをさらにもっと大事にして将来に伝えたいという、そういう気持ちになるような、実際に行ってみるとやっぱり良いところなんですよね。こういうところだったらば、義経が来たというふうにもつい言いたくなるような場所が多いので、だからそういった自分たちの地域のランドマークというか、神社やお寺やそういったものを、孫子の代までずっと大事に守り伝えていきたいという、そういう地域の人びとの気持ちの表れであって、その気持ちを大事にして、そういう気持ちをもっとこれからも盛り立てていくということがすごく大事なんだと。だから、来たか来ないかという話ではなくて、地域の人びとのそういう、地域にあるそういったお寺や神社や、あるいはいろいろな美しい風景に寄せる深い思いが一番大事で、そこを汲み取っていくということが一番大事かなというふうに思います。

田村麻呂と義経は表裏一体

[小松]
 東北は、もう何度も何度も、いわば都から派遣された軍隊にある意味では制圧されてきたんだと思うんですね。その中で、いろいろな東北の地に伝説をたくさん残した人物は、坂上田村麻呂と義経なんですよね。その他、後三年、前九年とかいろいろあるんですけれども、そういう人たちが来ても、あまり残っていないんですよ。ところが、ここは田村麻呂が作ったお堂だとか、そこまで来て津軽までねぶたの祭りまで、坂上田村麻呂が地元の人をだまくらかして、そのときにやった歌舞宴曲がねぶただとか、そういうふうな形で広がっていっているんですね。それと同じぐらいに義経の話が伝わっていると、これは非常に興味深いですよね。でも、一方は勝者で都に帰って清水寺を建てたんだとか、そういう形で伝えられているんですけれども、義経の方は敗者で北の方まで逃れていったと、その伝説というのは、何か非常に表裏をなしているような、勝者の伝説と敗者の伝説が両方混ざっていて、何か東北の人びとの間の中に、義経に託した方が自分たちの気持ちを表すことができるし、多くの人に納得してもらえる、そういうシンボルだったんだと思うんです。だからきっと、僕もひょっとしたらその辺にある石を、これは義経の腰掛け石ですとか、ついつい大事にしようと思ったら、周りを囲ってしめ縄を張って、そういうふうに言えばみんな大事にしてくれるんじゃないかというぐらいの力を持っていたんじゃないだろうかという気がするんですね。だから、人びとの伝えたいという、信仰心を伝えたい、この場所を残したいというふうな土地の人たちの思いみたいなものが伝説を作っていっているんじゃないだろうかと、それが気が付いてみれば、ずっとあちこちにそういう伝説の場所が残っていて、ふと地図の上に見ると、これは山伏の歩いた道ではないだろうかとか、あるいは巫女さんあるいは比丘尼みたいな人たちが歩いていった道ではないだろうか、北前船が点々と寄っていった港ではないだろうかとかいう、何かそういう人びとの足跡、交通路みたいなものとも重なってくるんですね。ですから、何かやっぱり義経というのは、人びとの物語りたい気持ちの一番ジョーカーみたいなものだったような気がするんですね。どこへ行っても聞いてもらえるし、納得してもらえるような、そういう力を持っていたんだろうと思うんですね。

伝説と復興

[斎藤]
 今回このイベントをやる前に、私は三陸海岸の義経伝説が伝わっている場所を歩いて見たんです。義経に関わるいろいろなものをお持ちになっている方とも会って、お話を聞いたりしたんですけれども、その神社やお寺なんかが多いので、それは少し高い場所にあって、津波を免れたというところもあるんですけれども、津波の被害に遭っているところをまさに抱いて、津波に流されないように守っているという文書もあったりして、この人たちのお話を伺うと、歴史上の事実として北へ義経が逃げて生き延びたという伝説があるわけです。伝説なのか歴史なのかということが、区切りのない世界になっていて、そのことを語るということが、さっき入間田先生もおっしゃったように、その地域とか自分の家だとか神社だとかお寺だとかということを守るということの何か根拠になっている。それが、多分僕はそれを語ってきた人たちが、自分たちの地域をつくるということの思い、これも入間田先生が先ほどおっしゃったことですけれども、何か重なっていて、特にこの3.11の震災の後で、津波の被害を受けた地域にとって、八戸はそんなに、岩手県なんかと比べると被害は小さくて、復興が早く進んでいるわけですが、三陸の南側の方に行けば行くほど被害は強くて、そういうところでも、例えば仮設住宅に住みながら、義経の伝説に関わるものを守っていたりする人たちがいたりするのを見ると、市長さんが先ほど最初に言われたことですが、八戸を含めた三陸の地域にとって、義経北行伝説を語るということが、ずっと語られ続けてきたわけですが、今語るということに、僕は何か意味があるのではないだろうかなということを、実際にその伝説を伝えてきた人たちに会って思ったりするわけです。 [小松]
 気になっていることがございます。それは、義経の生存説みたいなものを語り出してくる江戸時代なんですけれども、常陸坊海尊の伝説なんですね。海尊は、『義経記』なんかでは逃げ出したというふうに言われているんですが、実はその後不老不死の、ずっと長生きして義経のことを語るようなそういう立場、何百年も生き続けて、そして今江戸時代になって、実はこうだったみたいな、何か時代を超越するような人物を一方では作り出した。だから、常陸坊海尊の伝説というのは、何か人魚の肉を食べて、私はまだずっと生き続けていたみたいな不老不死の伝説と結び付くんですけれども、歴史の目撃者がずっと今いて、あたかも私がその当時のことを実況中継をするような形で語ってくれる人物を、東北は一方では作り出してきたんです。何か歴史に関する思いというのが、そういう人物を作り出したので、私は距離をとる、語り部を、例えば今回の地震、津波とかいうものを忘れていかないための一つの装置として、語り部をずっと100歳生きた、200歳生きた、おそらくは語り部が語り継いでいくことでもあるんだろうと思うんですね。何かそういう装置というようなものがあったのではないだろうかと、あかたも見たかのように語ってく、僕はやはり忘れないためにも、作家にも頑張ってほしいわけだし、吉村昭さんみたいなものが見直されると同じように、口頭伝承で津波を語っていく、そういう場として義経伝説と結び付きながら、こういう歴史を忘れない、出来事を忘れないという、そういう装置が義経の伝説の中には派生しながらくっついていたような気がするんですね。そういうところで、少し今お話を言ったことを私なりにちょっと解釈すると、そういう面からも義経の伝説を見ていくと、それは義経はそれ自体ではないんですけれども、常陸坊の話なんかはそういうようなものとも絡んでいるんじゃないかなと思ったので、ちょっと話させていただきました。 [入間田]
 復興絡みで言うと、地域の復興というのは仮設住宅だけ作ってしまえばおしまいではなくて、実は神社もありお寺もあり、あるいは伝説に出てくる非常に美しい風景もあり、そういうものが全体として復興されなければいけないんですけれども、つい住んでいる住宅だけ建ててしまえば後はおしまいと、お寺や神社は後回しというふうに、宮城県なんかはなっているところがあるんですよね。でも、やっぱりコミュニティーというか地域というのは、その住居もあるけれども、そういう神社やお寺や、あるいは風景とか、そういうものが全体に交わって一つの地域として何百年も、あるいは何千年も人びとがなじんで作ってきた、それを全体として守り、そして未来に残さなくてはならないと思うんですけれども、今そのことが、うかうかするとつい、道路とか住宅だけ建てれば後はおしまい見たいになってしまうところがあるわけで、その点で言うと、やっぱり義経伝説というのは地域にあるお寺や神社や、そういったものを大事にして未来に残していく、そういう役割をこれまですごく大きく果たしてきたと思うんですよね。だから、最近になっていろいろ伝説は本当か嘘かみたいな議論もありますけれども、そういった神社やお寺やあるいは美しい風景に寄せる、そういう人びとの気持ちというものを受けついで、これからの地域づくりに生かしていくということで言うと、やっぱり義経伝説が持ってきた非常に大事な役割があって、それを今後さらにどういうふうにプラスアルファして、うまく地域の全体的な風景なり、そういうものを残していくかということが課題なんだと思うんですね。そういう点では、やっぱり伝説の果たしてきた役割というのはものすごく大きくて、それがあるために乱開発から神社とかお寺を守ってきたところもあったりするわけだから、ましてやこれからは新しい地域づくりをしなくてはならないわけで、その中で義経伝説そのものもあるけれども、それに込められた地域の人びとの思いというのを、どのように発展的に受け継いでいくかということがものすごく大事なんだと思いますね。

伝説と歴史の融合

[斎藤]
 最後に一言ずつ今日のトークセッションのまとめをしていただければと思います。
[入間田]
 歴史学も、最近は変わっていまして、私の学生のころはやっぱり嘘か本当かというので、伝説なんていうのに変に気を許すとだまされるから、そういうのには興味を持つなというふうに大学の先生に教わったんですね。でも、私は何となく昔からそういう伝説に興味があったりして、こっそりと学会とは隠れたところで調べていたんですけれども、最近は日本全体あるいは世界全体がそうなんですけれども、やっぱり本当か嘘かというだけで全部ぶった切るというのは極めて狭い考えなので、それよりもその地域の人たちが実際にいろいろな時代にどういうふうに考えて、そしてこの自分たちの暮らしを大事にしてきたか。だから、伝説であっても、例え嘘であっても、その地域の人がそれを信じて大事にして村を作ってきたということ自体は本当なんですね。だから、狭い意味での義経が来たか来ないかなんていうことだけにこだわってしまうことは、そういった地域をつくってきた人たちの気持ちを全然理解しないことになるので、むしろ人びとの思いに寄り添って、それで学問を作っていくということが、最近の日本史の学問の流れであり、あるいは世界全体から見ても、歴史学の流れがそういうふうに変わってきていますので、ようやく小松先生なんかともこういうところで話が合うような状態に、歴史の方もなりました。
[小松]
 義経は史実に近ければ近いほど、何か背が低くて出っ歯で、義経を見分けるためには出っ歯だと、そういう史実に近い義経像が、だんだん美男子になっていく。テレビの大河ドラマの義経に出てきたら、一遍に今回の清盛が汚いというだけで視聴率が落ちてしまう、そういう面があると思うんですね。やっぱり、八重だってきっと写真を見ると、今のテレビの方がずっとね。ですから、人びとが心に描く物語の中のイメージは、史実とは違うものをそこに託しているんだろうと思うんですね。歴史家は、確かにその真実をある面で明らかにしてくれているけれども、私たちが胸に育んできた義経像というのは、それとは違うもう一つの歴史像なんだろうと、義経像なんだろうと思うんです。そういう意味では、私たちは真実、歴史学が明らかにする歴史を一方では眺めつつ、その隙間からある意味では人びとが作り上げてきた伝説というんでしょうか、義経像というのも、やっぱり人びとの臨んでいた、作り上げてきた別の歴史を、真実を表しているのではないかと私は思っております。そういう意味では、これから歴史学と、僕は歴史的事実は非常に大事だと思っているので、そこから伝説が立ち上がってきますから、その両方から、その地域なり、その人物なりについて、人びとが抱いてきたイメージが明らかにできるのではないだろうかと思うので、一方では厳密な意味での歴史と、一方では先ほどの「御曹子島渡り」のような突飛もない空想の中に生きる義経、両方発掘していくことが大事だし、両方研究することが大事だなと、私などは思っております。
[斎藤]
 今日は、歴史学の入間田先生と、民俗学の小松先生にお話をしていただきましたが、歴史学と民俗学が融合して、どこまでが歴史でどこまでが伝説なのか区別がつかなくなるということに、すごく意味があったかと思います。義経の時代の東北「道の奥」に一つの独立した権力があった、さらにその「みちのく」から新しい歴史が生まれてきたという歴史的な背景もあって、その中にこの義経伝説もあった。義経が北の異界と触れ合うことで、豊かさや力を得るという物語の構造もあった。義経伝説を地域の人が語るということが、その地域のコミュニティーを形成するシンボルになっているということも語られてきたかと思います。
 ひとまずここで、トークセッションを終わりたいと思います。長い時間ご清聴いただいて、ありがとうございました。(拍手)

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